プロローグ



「私をあの暗く寒い地獄へ陥れた者ども……必ず、必ず、この恨みはらしてくれる!!」

 闇を引き裂くかのような、叫び。

 まるで修羅のような鬼気迫るその表情。

 怨念でもなく、憎悪でもない。

 そんな、おどろおどろしい表現とは異なる……少なくとも、今そこにいる厳窟王ことモンテクリ

スト伯は、闇の中でも希望を失わない、力強い目の輝きがあった。

 敵を焼き尽くさんばかりの、灼熱の光を、見たような気がした。

 怖い……とてつもなく怖い。

 全身が目に見えない無数の針で貫かれたような───

 身体の細部にまで、衝撃を感じた。

 仇敵と定めた三人をしっかり見据え、モンテクリスト伯は、もう一度叫ぶ。


「復讐だ!!」


 初めて見た舞台。

 それが永原映演じるモンテクリスト伯だった。

 俺はその舞台に魅せられてからというもの、自分も役者になりたいという夢を抱くようになっ
て。

 ずっと憧れてきた人だった。

 永原映。

 幼い頃から、舞台を踏み、数々の名演が伝説となった人。

 舞台という限られた空間の中で、無限の世界を見せてくれる、そんな役者だ。

 何の運命に導かれてか。

 俺は、今、その永原映の舞台を目の当たりにしている。

 客席からではない。

 舞台の袖からだ。

『マクベス』東京公演の千秋楽。

 マクベスとマクダフの最後の戦い。

 大きく見開かれた目は、絶望の闇を見詰め。

 剣を振るう様は、マクダフというよりも、自分に降りかかった運命に斬りかかっているかのよう
だ。

 この世を呪うかのような、マクベスの凍り付いた眼差しに、俺は戦慄を覚える。

 マグタフの剣に倒れても、その眼差しは閉ざされることはなかった。

 あれが永原映。

 ずっと憧れていた人の演技を目の当たりにし、俺の足は震えて止まらなかった。

 やがて舞台『マクベス』は、マクダフの凱旋により、閉幕する。

 大きな、大きな拍手の波が舞台に押し寄せてくる。

 俺が出ているわけじゃないのだけど、その怒涛のような勢いに、胸が熱くなるのを感じた。

 カーテンコール。

 再び開いた幕から見えた客席は、スタンディングオーべーション。

 いつまでも鳴りやまない拍手に、永原映の顔は、とても満ち足りた、輝かしい笑顔を客席に向

けていた。


 カーテンコールの後、こちらにやってきた永原映は、俺に問いかけてきた。

「君が、浅羽洋樹君だね」

「は、はい……」

 緊張して思わずどもった返事をしてしまう俺に、永原映はにこりと笑って手を差し出した。

 男なのに、信じられないくらいに綺麗な笑顔だ。

「君がここに来るのを、ずっと待っていたよ」

 大きな拍手が鳴りやまぬ会場の中。

 舞台のライトを背景に、永原映の存在はいっそうまぶしくて。

 俺は何も言えないまま、それでも震えた手で何とか、手を握り返すことしか出来なかった。

 

 その日から、俺はずっと憧れてやまなかった名優、永原映の弟子となったのである。


 

 



秋時雨






 

 何とも気まぐれな空だった。

 先ほどまで、晴れていた空の雲行きが妖しくなっている。

 このままだと、雨が降るかも知れない。

 舞台の袖、緊急時に外へ出るように出来ている裏口を出た所で煙草を吸っていた俺は、休
憩時間の終わりが、あと五分に差し掛かっているのを時計で確認し、吸い殻を地面に落とし、
足で踏んだ。

 舞台の袖に戻ると、もう何人かの役者さんがスタンバッていた。

 「洋樹、今までどこへ行っていた?」

 突如、気配もなく声を掛けられ、驚いて振り返ると、そこには舞台衣装であるスーツを着用し

た青年が立っていた。

 いや……とは言っても、もはや三十を過ぎたら、青年と呼ぶ年頃ではないだろう。

 しかし、今回演じる役は青年だ。見た目も二十代半ばの青年である。

 俺は、思わず長いため息をついた。

 今は短い髪型ではあるものの、伸ばせばまっすぐ艶やかであろう髪の毛は、栗色だった。同

色の目は柔らかな印象をあたえる二重でありながら、目尻は長く切れ込んでいる。 

 眉はまるで筆で書いたように整った柳眉だ。

 背丈は役者の中では高い方ではないのだけど、バランスとれた体格は華奢のようで、実は逞
しい。服を脱いだら、かなり引き締まっている。

 永原映。

 日本映画界において、天才の名を恣にした人。

 舞台においては『奇跡』と呼ばれる人だ。

 そんな人が、目の前にいるだけでも、本当はかなり恐れ多いことだ。彼の弟子になりたがって
いる人間はごまんといる。その気になれば、オーディションも開けただろうに。

 しかし、そういった人間達を差し置いて、俺はこの人の付き人をやっていた。

 何故かというと。

「また隠れ煙草か?堂々と吸えっての」

 後ろから、頭を叩かれる。

 振り返ると、大正時代の書生を思わせる出で立ちをした青年が、そこには立っていた。

 こちらも端正な顔には相違ないのだが、永原さんに比べたらいささか地味である。パーツの
一つ一つを見たら、鼻筋は通っているし、輪郭もシャープである。奥二重の目も涼しげな印象を
受ける……が、何というのか、永原さんと比較したら華やかさには欠ける。

 しかし、演じ方によっては、この地味な人も鮮烈なキャラになるのだから大したものだ。

「あ、先生」

「俺は先生じゃない。先生と呼ぶ人間は、そっちだろう?」

 呆れたように嘆息をして、彼は永原さんの方を指さした。

「湊、堅いことを言うな。君が教員をやめて間もないんだ。そう呼んでしまうのも無理はない」

 永原さんはおかしそうに笑いながら言った。

 湊と呼ばれた青年は、不服そうに眉を寄せる。

「そんな甘やかすような事を言って。前回の付き人は、あなたのそう言った態度に図に乗って、
大きな顔をして……何一つ、あなたから学ばないまま舞台に立って、今じゃ有名な大根役者じ
ゃないですか」

 その言葉に、俺は密かにどきりとした。永原さんの付き人であるということをひけらかすつもり
はないし、実績もない自分がそんなことを自慢するのは、恥ずかしい。できることなら伏せてお
きたいというのが本音だ。でも、こういう場所にいれば、否応なくバレるし、永原さんが俺をスタ
ッフに紹介した時なんか、みんなあからさまに、「こんな小僧が?」みたいな顔してて……でも、
そんなことは、まだ些細な悩みに過ぎない。

「ああ、そうだったかな。だけど、だからといってこの子がそうなるとは限らないだろう?僕はね
……生憎誰かにものを教えるのが苦手なんだ。だから、弟子であるこの子は、僕を見て、そこ
から自分で吸収してもらわないと」

 湊と呼ばれた青年の名字は来嶋。少し前まで、俺が通っていた学校の教師をやっていた。

 この教師との出会いが、運命を変えたのだ。役者になりたいと切望していた俺に、来嶋は圧
倒的な演技力を見せつけた。プロは今の演技以上の要求を突きつけられる……その忠告に
対して、俺は自分なりの演技力で来島に訴えた。

 俺は絶対に役者になる、と。家族を捨ててでも、なる覚悟はできている。

 その熱意が伝わったのか……未だによくわからないけど、俺は来嶋に気に入られた。そう、
この男、ただの教師じゃなくて永原さんと同じ舞台に立つ役者だったんだ。個人的にも二人は
仲がいいらしく、俺は思わぬコネでもって、永原さんの付き人になっちゃったわけだ。そんな経
緯だからこそ、付き人だからと言って、自慢できたものものじゃない。

 今の俺にはむしろ永原さんの生徒として、恥ずかしくない自分で、いなきゃいけないということ
で、頭がいっぱいだった。

 その二人が立つ舞台であるが、タイトルは『雨が止むとき』

 来島の役所は、ロマン溢れる大正時代、伯爵令嬢の家庭教師をしながら、作家を志す水瀬
役だ。そして、永原さんは、その伯爵の命を狙う暗殺者、佐賀であった。この佐賀と水瀬は衝
突しあいながらも、惹かれ合う設定だ。男同士の恋愛ということになるんだろうけど。

 ああ、本当にこういう役ってあるんだなぁ、と俺は思った。俺が最初に見せつけられた来島の
演技は、男同士のキスシーンだった。そう、俺ってば、この人にキスされたんだよな……しか
も、不覚なことに、それが嫌じゃないと思ってしまったのである。

「ん?何だ、何か文句でもあるのか?」

 来嶋の問いかけに、俺は我に返った。知らず知らずのウチに、奴を睨んでいたようだ。キスさ
れた時の、何とも言えぬあの敗北感というものが蘇ってきたからか……くそ、いつか俺はこの
男を見返してくれる。

「なんでもねーよ、そろそろ練習はじまるぜ」

「ああ、分かっている。お前も永原さんの演技、よく見ておけよ。後で、練習台になってもらうん
だからな」

「……」

 練習台、という言葉に、俺は口元が引きつった。俺は現在この人のアパートに同居させてもら
っているのだけど、アパートに戻るたびに、この人は俺を何かと練習台にする。

 そして、そのたびに実力の差を見せつけられるのだ

 来嶋はくすりと笑って、衣装である外套を翻し、舞台へと出て行った。

 その笑み一つが、何人の人間を引きつけるのか、分かっていてするのだから、怖いものがあ
る。

 く……笑顔一つで、動揺しているようじゃ、あいつを見返す日が遠ざかるじゃないか。

 しっかりしろ、俺。







「君……僕に気があるのだろう?」

 挑発するような眼差し。凄みがあると同時に、瞬時にして人間を虜にする妖艶さがそなわって
いる。

 孤独な暗殺者、佐賀。日本人と英国人の間に生まれ、幼い頃から差別を受けてきた彼であ
るが、やがて美しい青年へと成長する。

 彼は自分の容姿が、人々の欲望をかき立て狂わせてゆくことが分かってから、人を惑わすこ
とを楽しむようになる。

 それを演じている永原映は、まさに美女さながら男を誘惑している。周囲の役者も、スタッフ
や監督まで、その演技に魅入られていた。

 佐賀というキャラクターは、とても気まぐれな性格で、水瀬に気があるようなそぶりを見せなが
らも、そっけない態度をとってみせたりもする。捕まえようとしても、するりと逃げてしまう……そ
んな幻みたいな存在だ。

 佐賀は、そう……今の空みたいな……雨が降ったり止んだり、時々晴れ間を見せたりもする
秋時雨のような存在なのだ。

「馬鹿にするな!君は俺を何だと思っている!?」

 一方、来嶋の方は、佐賀と衝突する水瀬役だ。伯爵家の使用人として潜り込んだ佐賀は、そ
こで書生である水瀬に出会う。心優しく、生真面目で、それでいて一途な青年は、周囲の人間
を惑わす佐賀が許せない、正義感強い青年役をお見事に演じている。普段は意地が悪く、何
かと嫌味で、口うるさいくせに、ものの見事別人になりきっていた。

「相模も、ようやく演技に板が着いてきたな」

「教師の柵から解放されたからだろ」

 周囲のスタッフの声に、俺は来嶋の方を見る。あいつは相模ひろしという芸名を持っている。
だから、俺と永原さん以外は、来嶋のことを相模と呼んでいた。

 今でこそ、永原さんと対等に演じている来嶋だが、それまでは自分の中に迷いがあった為
に、演技にもそれが現れ、演出家に蹴られていたこともあったらしい。俺は、その時の来嶋を
知らないけど、あいつが役者の才能がありながらも、教師をやっていたのは、病床の父親がい
たからだそうだ。家族を養う為に、安定した収入が必要だったから、来嶋は教師を辞めること
が出来なかった。

 だけど、そんな迷いが演技に出てしまったことが、来嶋は許せなかった。この舞台は、役者
の師匠であり、もう一人の父親でもあった織辺拓彦から引き継いだ舞台だったから。 そして織
辺の代役として、自分を見込んでくれた永原さんの思いに答えるためにも、来嶋は教師という
職を捨てたのだ。

 それが家族に苦労を強いることになることを承知で。

 俺もまた、家族を捨てて役者の道を選んだ人間だ。それでも、役者の道を歩み出した来嶋の
気持ちは、痛いほどに分かる。 

 舞台という世界が、どうしてこんなにも惹かれるのか。

 それは、様々な人々の思いがそこにあるからかもしれない。

 一人一人の思いが、観衆を魅了する美しい世界を作り上げてゆく。

 俺もまた、そんな舞台の上で生きる人間になりたい。



「君……僕に気があるのだろう?」

 俺は前髪を掻き上げ、顎を反らして、お高い口調で言った。永原さんの演技をみたまんま演
じたつもりだけど、次の瞬間来嶋は、大げさなくらい長い溜息をついた。

「全然駄目」

「な、何だよ、それ!?んな、いきなり永原さんみたいに演じろって言ったって、無理な話だぜ」

「当たり前だ。いきなりあんなに上手くなれ、とは言っていない。俺が気に入らないのは、永原
映のコピーになろうとしているお前だ」

「え……」

「お前なりの佐賀を演じてみろ。何もかも真似ようとするな。お前が佐賀になれ」

「んなこと急に言われたってさー!じゃあ、あんたやってみろよっ!」

 さっきから一つの台詞を巡り、一時間以上あれこれ言い合っていたせいで、俺は苛々してい
た。苛々のあまり、思わず台本を来島に向かって投げつける。

 アパートの一室、来嶋の練習につき合う俺なのだが、そのたんびに俺は来嶋にボロクソ言わ
れる。今の台詞のテンポが悪い、勢いが足りない、このシーンの表情が乏しい……その他もろ
もろ、大きなミスから小さなミスまで、指摘されまくりだ。俺は一応永原映の弟子なのだが、実
際はこの人の弟子なんじゃないだろうか。

 投げつけた台本は、見事来嶋の顔面に命中したが、来嶋はいたって平然な顔をしていた。

 しかも、その台本を読み始めて……

 じっと読み始めて……。

 ま、まさか。だってこの人、脇役専門じゃん。いきなり主人公を演じろと言われたって……そ
んな、永原さんになれるわけじゃないだろ。

 しかし、来嶋はしばらく台本に目を通してから、それをデスクに置いて。

 側にあるベッドに片肘を着き、どこかけだるそうな姿勢で、こちらをのぞき込む。上から下を
見下ろす永原先生とは違う。来島は下から相手を見つめ、誘っているのだ。

「君……僕に気があるのだろう?」

 熱を帯びた声だ。ここは永原さんと同じ……だけど目つきだけで、同じ台詞を言っているの
に、印象が一八〇度違う。女王のような傲慢さを振る舞い、相手を挑発するかのように誘い込
む永原さんに対し、来島は女王のような悠然さを残しつつ、どこか甘えるように、相手を誘惑し
ているのだ。

 同じ佐賀なのに、全くタイプが違う。

 佐賀を演じる来嶋は、俺に近づいて肩に触れる。そしてそのまま、床に押し倒された。

 孤独な暗殺者佐賀は、人間の温もりを求めようとする。

 その寂しい眼差しを愛しく思った水瀬は、そんな佐賀を拒めなかった。

 そう、拒めなかったのだ。

 俺は……水瀬になっていた。佐賀を受け入れようとする、水瀬に仕立て上げられていた。

 唇が重なった時も、動けなかった。

 そしてシャツのボタンが外され、手の先が胸を這う感触を覚えても。

「馬鹿か……お前は」

 来島の唇が離れて……彼がそう言うまで、俺は水瀬という呪縛から抜けることができなかっ
た。

「俺に、飲み込まれてどうするんだ……っ!?」

「……ごめん」

「謝る奴があるか。俺を拒絶するくらいの根性をみせろ!俺を……失望させるな!」

 来島の叱咤に、俺は何も言い返せなかった。俺は確かに来島に飲み込まれて、来島のされ
るがままになっていた。

 来島は、多分、俺の反撃を待っていたのだろう。

 だけど、俺は情けないことに動けなかった。本当に、情けないことに。

 しかし、どうしたことか、来島は我に返ったように俺を見て、口元を手で押さえた。

「悪い……今のはお前に言ったわけじゃない」

「え?」

「俺が俺に言った言葉だ。気にしないで欲しい」

「何を言って……」

「お前に当たるつもりはなかったんだ。本当に」

「───」                                                      

 来嶋は、俺から離れて、傍にあるテーブル凭れるようにして肘をつく。もう一方の左手は、頭
を抱えていた。

 俺はその時、来嶋がまだ自分の演じている水瀬に、納得をしていないことに気づく。

 こいつは俺の不甲斐なさを見て、自分の不甲斐なさを見たんだ。

 来嶋もまた永原さんが演じる佐賀に飲み込まれそうになっている。だから……さっきの叱責
は自分自身に向けたものだった。

 だけど、俺が惨めなことはかわりなくて……この人の練習台になれるように、もっとうまくなれ
たら、と切に思う。

 何だか気だけが焦っていて、実力は全然なくて。

「おい、お前まで落ち込むことないだろう?」

「そんなこと言われても、俺だって、もっと上手くなりたい……あんたにそんな風に思わせるよう
な、ヘボな演技なんかしたくないのに」

「洋樹……」

「何か、自信ないんだ。永原さんの演技を見て凄いと思うけど、何を学んだらいいのか……凄
さばかりに圧倒されて、どうしたらいいのか分からないんだ……俺も前の永原さんの付き人み
たいになってしまうのかもしれない……そう思うと」

 こんなこと言うつもりなんかなかった。来嶋は舞台を目前に控えている。俺のことなんか忘れ
て、自分のことだけに没頭していて欲しい、と心底思うから。だから、こんな些細な不安なんか
言ったら駄目だと、思っていたのに。

 俺は、本当に弱い人間だ。

「……わりぃ。変なこと愚痴った。忘れてくれていいから」

 俺はのろのろと立ち上がり、キッチンへ向かった。

 少し落ち着かなきゃならない。俺も、来嶋も。

 コーヒーでも淹れて、それから、また練習を再開しよう。今の俺に、どこまでのことをこの人に
してやれるか、分からないけれども。

「違う」

 突然、来嶋の一言が返ってきた。

 俺はキッチンへ続く暖簾を開けかけて、来島の方を振り返った。

 彼は真摯な眼差しをこちらに向けている。

「お前は、あんな奴とは違う」

「え……」

「お前の舞台に対する思いは、きっとどんな役者でも太刀打ちできやしない。俺はそんなお前を
見込んで、永原さんにお前を紹介した」

「だけど……思いだけじゃ」

「もちろん才能は必要だ。前の永原さんの付き人だって才能はあった……だけど、それを伸ば
そうという努力を怠った。過去の自分で満足したまま、今にまで至ってしまっている。だけど、お
前は。舞台に立ちたいという思いも強いけど、より素晴らしい舞台が出来上がることを願ってい
る。そのために自分を高めたいという思い……お前にその思いが在る限り、あんな奴のように
堕ちることはまずない」

「来嶋……」

「お前が素晴らしい舞台の完成を願い、自分のことよりも、俺のことを優先にしてくれていること
も分かっている……俺は少し、そんなお前に甘えていた」

「……っ!」

 俺は驚いて、まじまじと来嶋を見つめる。

 自嘲気味に笑っている……何か来嶋らしくないというか。でも、これが来嶋の本当の姿なの
かな、とも思える。

 普段なら、そんな弱さを他の人には見せやしない。だけど、俺にだけは時々、そんな弱さを見
せることがあって。それが来嶋の言う、俺に対する甘えなのだろう。

 だけど……この人にだってそういう場所が必要だ。

 今、来嶋は、自分の師であった織辺拓彦の全てを引き継がなくてはならない。今や伝説とな
りつつある名優に劣らぬ演技が求められているのだ。いきなりそんな使命を背負えだなんて、
普通の人間なら潰れている。けれど、来嶋は耐えている。肩にのしかかる重圧に。

 それにこの人の家族は、大黒柱である父親が病床だから、母親も苦労しているらしい。それ
に兄弟も。

 妹は行きたかった私立を諦めて、公立学校の試験を受けるつもりらしいし、弟もまた奨学金
とバイトをすることで、何とか自力で大学へ行っているとか。

 家族のために、一刻も早く役者としての地位を確立させないといけない。そんな状況で、家族
に弱音など見せることができるはずがない。

「俺のことは気にするなよ。俺はまだ、半人前にもなっていない。その分、気楽な身分だしさ」

「しかし、お前はお前で悩んでいる。そういうことは心の中に閉まっておかなくていい。お前より
役者経験が長い分、多少のことは何か言えるかもしれないんだから」

 来嶋のその言葉に、俺は少し肩が軽くなったような気がした。今になって、俺は俺で重圧を感
じていたことに気づいた。

 永原さんの名前が廃るような、そんな役者になんか絶対なりたくない……なりたくないけど、
前の永原さんの付き人のようになってしまったら?

 ずっとそんな不安が渦巻いていた。

 来嶋にその思いを口にして、やっと、何か憑き物が落ちた気がして。

「ありがとう、先生」

「おい、先生じゃないって言ってんだろ?」

 来嶋は苦笑ながら言った。

「あ、そうか。じゃあ、ありがとう、来嶋」

「呼び捨てかよ!?」

「あ、そうか。じゃあ来嶋、さん……」

 うー、来嶋さんか。

 何かこの人をさんづけするのって、こそばゆいなぁ。

「別にそんな口引きつらせて、さん付けされるくらいなら、呼び捨てでいいよ……ただし人前で
は、ちゃんと来嶋さんと言えよ。顰蹙買うからな」

「俺は元優等生。その辺はぬかりないです。来嶋、さん」

「本当かよ」

 まだぎこちなく、さん付けをする俺に、来嶋はくっくっと肩を振るわせた。



 

 永原さんのように演じられたら……それは永原さんのコピーになるわけじゃない。

 実際に永原さんのコピーになりつつあった俺自身、自分が演じたいのはこんなものではな
い、と心の奥では叫んでいた。

 俺が欲しいのは永原さんの輝きだ。人を魅了する輝き。それは技術なんかじゃなくて、むしろ
永原さんの内面からあふれ出る強さからくるものだと思う。例えば戦士が戦う技術を完全に会
得しても、戦場で学んだことが発揮されるかどうかは、心の強さに掛かってくる。どんな戦いで
も、最初に立ちはだかる敵は、まず自分自身だという言葉を聞いたことがある。そう、自分自
身の心の強さが、最終的には勝敗を決めるのだ。

 舞台に勝敗はないけれど、だけど心身の強さは問われる。どんな技術者でも強さがないと、
結局は輝けないのだ。

 とはいっても、心の強さ……絶対的な自信は、技術の習得からはじまる。

 俺は、自分の技術というものに、今ひとつ自信が持てない。

 何しろ、全てが独学で、これといった実績もないし、確固たる基盤というものがない。

 俺は一つ溜息をついた。

 永原さんの控え室、座敷作りになっているこの部屋は、永原さんがくつろぐイス、鏡台に、デ
スク、クロゼットなどがある。それとシャワールームがある。

 他の役者さんと比較しても、この部屋は格別に良い部屋だ。

 俺の仕事は、永原さんが稽古から戻って、気持ちの良い環境をこの部屋に作っておくこと。
掃除、洗濯、食事の調達、あるいは注文。

 そういった雑用をしながらも、永原さんの演技を見て、勉強もする。

 そう、勉強なんだけど……

 着替えのシャツを畳みながら、もう一度溜息をつく。

「今日は随分と浮かないね」

 突如、後ろから声を掛けられて、俺はびくんと肩を振るわせた。

 そこには、練習から戻ってきた永原さんが、額の汗を手で軽くぬぐいながら立っているじゃな
いですか。

 俺は慌てて、洗ったばかりのタオルを永原さんに差し出す。あーびっくりした、ドアを開ける音
も立てず、気配すらカンジさせなかったぞ、今。

 ……まぁ、役柄としては無理ないんだけどね。永原さんは役作りのために、常に登場人物で
ある暗殺者、佐賀を思わせる行動をする時があるから。 今回も殺し屋に近い行動をしていた
りする。

 タオルを受け取って、汗を拭いてから、永原先生は俺の傍に寄ってきて、膝をついた。

 すぐ傍に、永原さんの顔がある。

 ずっとあこがれていた人だから、この人に見られるというのには未だに慣れない。

 緊張して、洋服をたたむ手すら、感覚がなくなってしまう。

「湊から聞いたよ、すまなかったね。君がそんな風に悩んでいたことに気づいてやれなくて」

「え……来嶋……さん、話したんですか。俺のこと」

 大きなお世話なことをする。

 そんな、俺のそんな不甲斐ないこと、話してくれなくても。

 恥ずかしくて、永原さんの方が見ることが出来ず、俺は俯いた。

「洋樹、僕は君の先生だ」

「……はい」

「先生というのは、生徒を小間使いする存在じゃない。生徒にものを教える存在だ。分からない
ことがあれば、僕に聞いてくれればいい。悩むことがあれば、僕に打ち明けてくれたらいい。君
は、僕の生徒なのだから」

「永原、さん……」 

 この人は、つい最近まで雲の上の人だったのだ。

 俺に夢を抱かせてくれた、憧れの人。

 そんな人に、気軽に相談するなんて、恐れ多くて、そんなの失礼だと思って……だけど、今、
永原さんは少し寂しそうな目をしていた。

 俺が距離を置いていたから。

 近くにいるのに、遠くの人のように永原さんを見ていたから。

 少し怖かったけど……永原さんの顔を、初めてまともに見た。今まで、じっと顔をみることなん
て出来なかった。

 やっぱり、綺麗な顔だ。

 穏やかな目つき、だけどその瞳の奥に秘められた輝きは、人の心を瞬時にして引きつける
強さがあった。

 胸が高鳴る。

 この人に飲み込まれてしまいそうだ。

 俺の精神も身体も、永原さんが取り巻く空気に、完全に飲まれてしまっている。

 他人からは冷めた奴だと思われていたし、俺自身も実はそう思っていたのだけど、この人を
前にすると、いつもの冷静さが発揮されない。というよりも、この人の弟子になってからというも
の、自分でも驚くくらい落ち着かない気持ちで一杯だった。

 いっそ飲み込まれてしまいたい……そんな思いを何とか踏みとどまらせ、俺は口を開く。

 今、自分の気持ちをちゃんと告げないと。

 このままじゃ、いつまでも永原さんに近づけない。

「永原さん……俺」



 自分にはまだ確固とした自信が無くて、その自信を形成する何かが欲しい。

 自分を確実に作り上げる、基盤が欲しいと、俺は初めて自分の本音を告げた。

 永原さんは、俺の肩を叩いて大きく頷いてから、徐に化粧台の前に置いてあるメモ帳にペン
を走らせた。

 そして一枚の紙を、俺に渡したのであった。

「え!?劇団で勉強?」

 来嶋の控え室。彼はスポーツドリンクを飲みかけていたのを中断し、驚いて俺の方を見た。

「ああ、演技の基礎だったら、ここで学ぶのが一番いいって」

「演技の基礎ねぇ。そうだな、独学だけの演技というものは偏るからな。あらゆる所から吸収す
るのも大切だな」

 鏡台の上にドリンクを置いて、来嶋は椅子の背もたれに身を預けた。

「で、ここが永原さんが紹介してくれた劇団なんだけど」

 俺は永原さんに書いて貰ったメモを来嶋に手渡した。

「ふーん、どれどれ。劇団KON?……え……KONってあの、KONか」

 酷く意外そうな顔をする来嶋に、俺は首をかしげる。

「え?来嶋知っているの?」

 俺もKONと言う劇団があることは知っているけど、詳細は知らない。

 雑誌では、まだあまり取り上げられていないのだ。

「ああ、今泰介が率いる劇団だ。まだメジャーではないものの、舞台自体は高い評価を得てい
る」

「へぇ、そんな劇団があったのか」

「特に主宰者である今さんは、永原さんのライバルと言われてきたし、主要団員である工藤潤
は既に劇団以外の舞台やドラマにもちょこちょこ顔を出し始めている」

 「え?永原さんのライバルって……ちょっと昔に伊東成海って人が騒がれていたけど」

「その伊東成海の本名が、今泰介だ。」

「へえ!?劇団やるようになっていたのか」

 伊東成海の演技は、ものすごいパワーを感じる。テレビ越しでしか見たことがなかったけど、
この人は永原さんと対極的な存在だとも感じた。

 永原さんは全体的に冷静沈着な印象を受ける人だ。勿論、喜怒哀楽が激しく演じるときは、
熱くもなるし、冷たくも成るけど、どちらかというとクールな役柄が多いように思われる。

 それに対して、伊東成海は熱血漢だ。もちろんクールな役もこなすけど、どちらかというと性
格がストレートな、気性の激しい役をすることが多いと思うのだ。

 まるで炎と氷のように違う二人。

「でもライバルだった人を俺に紹介するなんて。本当は仲が良かったとか?」

「まさか、顔を合わせるたびに喧嘩だよ」

「へ?」

「俺ならこう演じる、とか。俺なら、そこはこういうアドリブを効かすとか。このキャラクターのイメ
ージはこうだ、とか。いかんせん、どっちも間違ったことを言っているわけじゃないから、傍観者
もどう喧嘩を止めたらいいか分からないし」

 当時の修羅場を思い出しているのか、来嶋は溜息を着いている。伊東成海が活躍したの
が、七、八年前だから、当時この人は俺と同じくらいの年頃だったのか。

「いいなぁ、何か羨ましいや」

「ん?」

「だって、そんな凄い俳優達を傍で見ていたんだろ。しかも凄い個性のぶつかり合いじゃない
か。俺も見たかったよ」

 口を尖らせる俺に、来嶋は声を立てて笑う。

「あははは、お前って結構プラス思考だよな。実際見たらおっかないぞ。だけど、確かにな、あ
の二人が活躍した時代を見ることが出来たのは、俺の財産の一つになっているな」

 来嶋は目を細め、視線を宙に向ける。昔のことを思い出しているのだろう。幸せそうな顔…
…だけどどこか寂しさもあって。

 そうだ、そのころは、この人の師匠だった織辺拓彦もいたんだ。

 もう一人の父親だった、師匠の死。その悲しみががすぐに消えるわけがない。

 だけど来嶋はすぐにそんな表情を消して、俺に笑いかけた。

「行ってこいよ、永原さんとは違う演技を見るのもまた勉強だ」

「うん……でも」

「ん?どうした」

「劇団へ行ったら、付き人の仕事が疎かになるな、と思って」

 劇団へ入団したら、半日はそこで勉強することになる。今のように、終始永原さんの傍にいら
れなくなる。

「んなことはオーディションに合格してから心配しろ。永原先生が勧めたんだから、遠慮するこ
とはないだろ?」

「そう、なんだけど」

 ただでさえお世話になりっぱなしなのに、仕事を休むというのはどうも。

「あの人が求めているのは、付き人のお前じゃない。役者のお前なんだ」

「え……」

 どくんと、俺の心臓が高鳴った。

「一刻も早く舞台に立って貰いたいんだよ。お前にはね」

「……!」

 一刻も早く、俺に舞台って……!?

 そんな、信じられないよ。

 だって、あの人はつい最近まで、雲の上の人で俺なんかが、付き人になっちゃっていいのか
ってくらいに凄い人で。

 あの人が役者として、俺のことを求めるなんて。


   『洋樹、僕は君の先生だ』


 不意に、思い出す永原さんの言葉。

 ……ああ、そうだ。

 俺は永原さんの生徒だった。

 永原先生は、真剣に俺を育てようとしている、教師なんだ。

 いつまでも、「俺なんかが……」って思っていたらいけない。

 俺を役者として育てようとしている永原先生の思いに、俺は答えなきゃいけないんだ。

「来嶋」

「ん?」 

「俺、行ってくるよ」

「ああ」 

 来嶋は満足げに頷いた。

 どんな劇団が来ているのか知らないけど、俺はそこで自分の演技を確かなものにしてみせ
る。

 そして永原さんの生徒として。

 永原さんが恥じないような、役者になってみせる!



 来嶋の話では、劇団KONのオーディションは、一〇月一日、今日だった。これが急に決まっ
たことらしい。

 ここで学ぶにも、まずはオーディションに合格しなきゃいけない。

 というわけで、俺は凄く緊張していたのだけど、同時にわくわくもしていた。

 一体、どんなテストをするんだろうか?

 やっぱり演じたりするのかな?何かを。

 場所は、新宿の片隅にある小さな劇場だ。そこに劇場KONと書かれた古い看板が。

 思った以上に、ボロいかも……。

 本当にここで合っているんだろうか。少し不安に思いながら、俺は劇場の入り口をくぐった。
すると外観よりも綺麗なエントランスには、十数人くらいの若者たちが集まっていた。普通に募
集をすればかなりの人数が集まるらしいけど、ここの主催者が、ある日突然日時を決めたもの
だから、知る人ぞ知る人しか、ここには来てないはずだ、と来嶋は言っていた。

 それにしても、個性的なのから、ハンサムなのまで。

 う……俺の手前にいる奴、背たけーな……顔もいいし。モデルでもやってんのかな。

 その隣は、可愛い女の子だ。背は小柄で、目が丸っこくって、俺と目が合うとにっこり笑って
きた。

 可愛いなぁ……おっと、へろっている場合じゃない。それからは、ハンサムというわけじゃない
けど、顔立ちが個性的だったり、人を好きにする顔だったり、女の子でも、美人じゃなくて、雰
囲気が魅力的な人がいたりする。

「へぇ、あんたももしかして入学生?」

「……ああ」

 手前の、いい男君が声を掛けてきた。うーん、端から見て、俺とコイツ、どっちがいい男だろう
か?向こうの方が背が高い分、俺の方が不利かなぁ……んにゃ!役者は見た目が勝負じゃな
い!

「君は、誰の紹介でここに?」

「え!?紹介って……」

「だって、ここ知る人ぞ知る劇団だろ?劇団関係者から教えてもらわないことには、知り得ない
じゃないか」

「あ……ああ。そうだよね。いや、俺はここの主宰者の古い知り合いから話を聞いて」

「ふうん、俺はさ、叔父がちょっとした俳優やっててさ」

「へぇ、俺の知っている人?」

「宇佐見恵吾、それが叔父さん」

「宇佐見恵吾!?ま、まじ!?あ、でも、目のトコ似てるかも」

 俺は素直に関心した。宇佐見恵吾っつったら、時代劇じゃ大御所の人だ。悪を斬る正義の役
が定番だったけど。

「この前の吉良上野介役はシビれたよ。ああいった役もうまいんだね」

 何故か、その時、いい男君はびっくりしたような顔になった。その後、何故か面白くなさそうに
顔をしかめて言った。

「ふん……まぁあの人も、前から悪役はやりたかったらしいんだけど、十兵衛のイメージが強い
からな。だから、なかなか引き受けられなかったらしいわ」

「へぇ」

 知らなかったな、宇佐見恵吾に、こんないい男君の甥っ子がいたとは。お年寄りの正義ヒー
ロー、柳生十兵衛の役が定番で、厳つい系のいい男。それが宇佐見恵吾だけど、甥っ子は現
代風の美形ときている。

「叔父さんとかに舞台稽古とかつけてもらっているの?」

「あの人は忙しいから全然。俺が役者やりたいって言ったら、こんなトコ紹介してきてさ、何考え
ているんだろって思う」

 そう言って、彼は大仰な溜息をついた。

 何か、自分がここにいるのは、ふさわしくないと言わんばかりの態度だ。

 結構、エリート意識が強いのかな。

 その時だった。

「はーい、それじゃあ入学希望者の皆さん、名前を呼ばれたら返事をしてください」

 何とも言えない、可憐な声だ。

 そちらへ顔を向けると……え、おばさん……ととと、失礼、失礼……いや、年齢は40過ぎて
いると思うんだけど、目が可愛らしい、美人だ。もしかしたら女優だろうか、赤いスーツがよく似
合っていた。

 全員が、その女性の近くへ集まっていったので、俺もそれに従う。

 その際に、耳打ちする声があった。

「あんた、失敗したわね」

「え?」

 俺はびっくりして、声がした方へ顔を向ける。

 そこには、さっきの可愛い女の子が、くすくすと笑っている。さっきの愛想とは異なり、どこか
意地の悪さが見え隠れする。

 うわ、この子、以外と曲者!?

「あの人、宇佐見恵吾の甥っ子なのよ」

「うん、それ今聞いたけど」

「分かってないわねー。あの大物の甥なのよ。ここで仲良く取り入っておかなくてどうするの
よ!?そんな対等なお友達みたいに話しちゃってさ。あの甥っ子が「生意気な奴だ」って叔父
にチクってみなさいよ、せっかく出演のドラマも、宇佐見恵吾の一言で、パーになるかも知れな
いのよ?」

「…………」 

 可愛い顔して、すっげー打算的だな、この女。でも、イイ役者になりそう。自分のかわいらしさ
を最大限に生かす術を知っている。将来共演出来たら楽しそうだけどな。

「ま、せいぜいかんばることね」

 そう言って、先だって歩いてゆく彼女は、また可愛らしい顔をして、宇佐見恵吾の甥っ子に声
を掛けている。あまりの見事さに、俺は拍手したくなった。

 うーん、宇佐見恵吾か。いくら可愛い甥のためでも、若手の役者を陥れるようなカンジの人じ
ゃなさそうだけどな。でも、テレビって表面からしか見えないし。

 まぁ、今後は当たり障りなく関わることにしよう。

 オーディション参加者は一三人。

 採用人数は特に決まっていないらしいが、見込みのある人間が、入団を許されるシステムに
なっている。

 一体、どんなテストが、待っているのか。

 最初に案内されたのが、観客席だ。目の前には舞台のセットが用意されている。案内人の女
優とおぼしき人が、席に座るようにいったので俺たちはそれに従った。

「これから、何が始まるんや?」

「俺、演技のテストさせられるのかと思ったよ。ロミオとジュリエットが毎年演らされるって聞いた
から」

「俺もそう聞いていたわ、だから似合いもしないロミオの練習したっちゅうに」

 ……俺は聞いてない。何だよ、ロミオって。

 過去問の研究なんて、俺、受験の時にするだけかと思っていたけどな。俺も練習した方がよ
かったのかな。少し不安になってきたぞ。

 そこに大股で歩く足音が、正面の舞台の袖から聞こえてきた。

「おい、礼子。ガキどもはそろったんだろうな」

 わ……すっごい、響く声だ。朗々として、それでいてお腹にずんとくる迫力。

 礼子と呼ばれた女性は、にこやかに笑って。

「全員そろったわよ、入団希望者、一三名」

「一三人だぁ!?去年より減っているじゃねーか」

「一人しか違いませんよ。大体、入団試験なんて、募集もせずに口コミだけでするのが間違っ
ているんですよ。しかも、三日前、急に思い立ったみたいに……」

 ぶつぶつと言う礼子さん……結構苦労しているらしい。勝手な主宰者に。

 でも、その今さんの勝手のおかげで、俺もここに来ることができたんだけどさ。

「思い立ったら吉日というだろうが。今日、ここに来ることが出来た奴は運がいい。運がいい奴
が俺は好きだ」

 無茶苦茶なことをいいながら、舞台の袖から現れた人間に、俺は思わず口を開いた。

 まず目に飛び込んだのは、鋭い目だ。オオカミみたいに鋭い。だけど、綺麗な切れ長だ。

シャープな眉、やや厚めの唇。年は三十過ぎているだろうが、かなりの美丈夫といってもいい
だろう。耳にはピアス、金色の髪の毛は前髪も引っ詰め、一つに括っている。

 迷彩色のTシャツに、ジーンズ。手に持っているのは……竹刀か?それで、俺らを殴るんでし
ょうか?うーん、殴りそうだ。何なんだ、このヤンキーみたいなおっさんは。

「よく来たな、俺様がここの劇団の主宰だ」

 お、俺様ときたよ。俺は生まれて初めて、自分のことを俺様という人間を見たような気がし
た。ふーん、しかし、この人が噂の伊東成海こと、今泰介か。

「これから、お前らがすることは、ちょっとした劇を見ること。その劇を軽く演じることだ。演劇経
験がない人間でも、見よう見まねでやってみろ」

 上目遣い。竹刀を肩たたきのように使いながら、お話をする姿ははっきり言って怖い。

 でも、何だろう。

 凄く、話し声に熱いものを感じる。部活の顧問なんか話にならないくらいに。

 こちらに切に訴えてくるあの声音は。

「ちょっと、泰さん!その前にやることがあるじゃないですか。自己紹介」

 礼子さんに言われて、今さんも思い出したように。

「そうだった、そうだった。一応自己紹介な。んじゃ、そこのお前から」

 舞台の真ん中に設置してある椅子に、どっかりと座って、木刀でもって人を差す今さん。

 うーん、礼儀正しい永原先生とは、本当に合わなそうな人だ。

 指さされたのは、俺より少し上の、太めな男の人である。

「はい、江藤吉正です。年は一八歳、演劇の経験は劇団四葉で三年。見かけを生かした、個
性的な役者になりたいです」

「個性的な俳優ね。同じデブ俳優の久保田とかぶっているから、他の役者の二倍は演技の努
力が必要だぞ」

「はい!」

「じゃあ、次お前」

 竹刀で差された次の相手は、あの可愛い女の子だった。

「はーい!大見麻弥です。あたしは劇団夕凪にいましたが、もっと少人数の劇団でじっくり勉強
したいと思って、ここに来ました。宜しくお願いします」

「おーし、いい覚悟だ。あのでっかい劇団より、俺を選んだとこがえらい。よし、じゃあ、そこの
お前」

 同じように竹刀で差されて、むっとした宇佐見恵吾の甥っ子であった。

 彼は大げさに溜息をついてから、めんどくさそうに自己紹介をする。

「宇佐見祥吾です。叔父は時代劇俳優の宇佐見恵吾。叔父からの紹介でここにきました」

「宇佐見ぃ!?あのジジィまだ生きてたのか。はい、次」

 あっさりと受け流されて、宇佐見祥吾はカッと顔を真っ赤にする。そりゃそうだ、今、叔父さん
の名前出すとき、水戸黄門の印籠出すみたいに得意げだったもんな。それをああも冷たくかわ
されたらたまらない。

 それにしても、みんな凄いな。結構有名な俳優や劇団通して、ここに来ているんだ。

 そりゃあ、まぁ、それを言うと俺もそうなんだけどさ。

「こら、次お前っつってんだろ!?」

 恫喝混じりの声に、俺は我に返った。

「あ……すいません。自己紹介します、浅羽洋樹、一八歳。演技経験は、演劇部のみ。これと
いった実績はありませんが、よろしくお願いします」

 俺の自己紹介に、周囲の人間の何人かが鼻で笑った気がした。まぁ、どうせ地味ですよ。皆
さんの華々しい経歴に比べればね。永原さんの名前だって、今の俺にはふさわしくない。

「演劇部ね、学校はどこだ?黎明館か」

 黎明館高校は、プロの俳優を育てる演劇の名門だ。しかも永原先生の母校でもある。それだ
ったら、まだ、俺の経歴も華やかだったろうが。

「いえ、新千葉高校です」

「……新千葉……聞いたことない……かな?」

 何故、最後疑問型で終わる?どっちにしろ、演劇の名門じゃないんだ。この人が知り得るは
ずがない。

「まあいいや、次」

 こうして一通り、自己紹介が終わった後、最初に言っていた、ちょっとした演劇を、俺たちは
見ることになった。

 となりの宇佐見が俺に声を掛ける。

「お前、殆どど素人じゃん。よくこんな所にくるよな」

「……」

 完全に馬鹿にされてるな、しかし否定できない自分がいるのが、何とも言えず悔しかった。

 

 

 演劇の内容は、何と殺人だった。

 俳優が殺人に至るまでの経緯を演じている。その俳優は柴田三嗣という結構人気の俳優だ
った。たかだか入学生に見せる演劇で、そんな有名人連れてくるなんて、俺も、他の生徒もび
っくりしていた。いかにこの劇場のグレードが高いのかを示している。

 そして殺される役の方は……

「誰だよ、あのおっさん」

「柴田三嗣に金を掛けた分、適当なのつれてきてんな」

 そんな囁き会う声が聞こえるけど、俺は不思議とそうは思わなかった。

 適当どころか、この冴えないおじさん、凄いうまいんじゃないだろうか。

 だって、もう見てる方が殺してやりたくなるような、演技をしているのだ。ねちねちとした言葉
遣い、嫌らしい上目遣い。

「あんたの妹は実によかったよ……写真を見せただけで、驚いて、俺の言うことを何でも聞い
てくれてよ……ひひひ」

 その言葉に怒りを震わせる柴田。

 拳が微妙に動いている。次第に寄せられる眉間、いかりがふつふつとわき上がるシーンだ。

 なかなか自然な演技をしているけど……気のせいかな?あの、もう一人のおじさんに引っ張
って貰っているカンジがするな。俺はこの柴田という人の演じ方は、いかがなものかと思う。ま
だまだ新人だっていうなら、先輩の俳優さんに引っ張って貰うのもいいんだろうけど、約五年は
俳優やっているのに、そんな演じ方って。

「死ぬにゃ惜しい女だった……もっと、もっと金になるはずだったのによう、おかげで俺はまた
貧乏よ。どうしてくれるんだ、責任とれよ!お兄さん」

「───」                                                      

 妹の死を悼まずに、自分の生活苦を訴える、愚かすぎる男に柴田はついに溜まりかねて男
につかみかかる。

 もみ合いになる内に、首を絞める柴田。

 苦しみ出す男。

 迫真の演技だ。本当に苦しそうで、助けてやりたいくらいである。

 ついには事切れて、床に崩れ落ちる男。

 俺は思わず拍手をしてしまった……まだ演技が終わっていないのに。

 ハッと我に返り、手を引っ込める俺に、隣で「馬鹿」という声が聞こえた。えー、えー、馬鹿で
すよ、どうせね。

「まゆこ……俺はもう、心が綺麗な人にはなれない……君が望んでいた理想の人にはなれな
かったよ」

 よろよろとへたり込む柴田。そして薬を飲んで自殺するシーン。

 だけど、俺の目は殺された人間の方へ釘付けだった。

(うわ、死体演じてるよ。演じてるんだよな?本当に死んでないよな?な?指先一つ動いてない
よ。うわー、何か本当に触ったら固そう。死後硬直って奴か)

 考えても見たら、死んだ人を演じるのをこんな近くで見たのは、初めてかも知れない。

 やっぱりビデオ越しだと、迫力が全然違うな。

 思わず身を乗り出して見る俺に、後ろの人が迷惑そうな声で「席に座れよ」と言ったので、俺
は渋々腰を下ろした。身を乗り出さないと、死体見えないのに。

 だけど、この後直ぐ暗転になった。そしてぱっとつくライト。ああ、終わったのか、舞台。

 舞台の袖から再び、今さん登場。

 「さて、改めて紹介するぞ 。こっちは知っている奴も多いだろうけど、柴田三嗣。それから、
こっちは鹿島瀧夫のジジイ」

 俳優たちも竹刀で指し示す。

「ジジイは余計だよ」

 むくりと起きあがってきたおじさんに、俺はびっくりする。うわ、普通のおじさんだ。

 しかも人の良さそうなおじさん。さすがにその落差に驚きのざわめきが聞こえた。

 ふうん、鹿島瀧夫かぁ。隠れたところで凄い俳優が活躍しているんだな。いいなぁ、あんな人
と一緒に演じてみたいや。

「ところで、そこのお前」

 突然竹刀がこっちに向いた。

「は、はい」

「妙なトコで拍手すんな。舞台見たとこないのか」

「す、すいません」

 う……恥ずかしい!だってさ、あんまり鹿島さんの演技が見事だったからさ。

「全くだぜ、これからが俺の見せ場って時にさ。お前、俺の演技見ていたわけ?」

 舞台の上、前に出張ってきたが、柴田三嗣。

 悠然と腕組みをして、こちらを見下ろしている。人気俳優だけに、さすがに美形だ。茶髪に染
めた髪も違和感ないくらい、北欧の人をにおわせる人だ。

 で、この人の演技を見てたかというと、見ていましたよ。鹿島さんと共演していた時まではちゃ
んとね。

 でもそんなことは言えないので、俺はとりあえずにこにこ笑っておいた。

「へらへらしやがって!」

 不機嫌露わ、後ろ頭を掻いて背中を向ける柴田三嗣。

「おい、何処行くんだ、柴田」

 尋ねる今団長に、柴田は振り返って。

「本来、こんなトコに出る暇ねーんだよ。俺は。それをわざわざ開けてやって来たっていうの
に、ギャラリーの態度が成ってねーんだよ」

「わざわざ目くじら立てる程のものかな。売れっ子の柴田さんよ」

 今団長の言葉は、何だか皮肉っぽく聞こえた。

 柴田は、横にあった椅子を蹴ってから、舞台の袖へと消えていった。

「あーあ、柴田さんすっかり不機嫌になったじゃないか。お前、どこまでも無知だな」

 ざまを見ろ、と言わんばかりの宇佐見祥吾。おやおや、何だかこいつもその意地の悪い本性
みたいなのが出てき始めたな。

「無知って何が」

「あの人、永原映の付き人だった人だぜ」

「え……」

「知っているだろ、永原映くらいはよ。俳優じゃ、伝説的な存在だよ。あの人の一声で、どれくら
いの業界の人間が平伏すると思っているんだ?」

「いや……知ってはいるけど。今も付き人なわけ、あの人」

「そりゃ、今は独立しているけどな。でも、あいつが永原さんに一言言ったら、俳優一人の人生
簡単に潰すぜ?劇団じゃ、そういう噂だ」

「そういう……噂」

 何だよ、それ。

 永原さんに一言言ったら……って。

「付き人は、そいつだけなのか……?」

「え?永原さんの付き人?えーと確か噂では、新しいのが入ってきたって言っているけどな。で
もまあ、その新しいのと、柴田さんだけだよ」

「……」

 何だよ、それ。

 じゃあ、あいつ根性なくて永原さんの元を去った、元付き人ってことかよ!?

 永原さんが一人の俳優を潰すなんてことするもんか。

 あの人は、そんな人じゃない。

 何で、そんな噂が流れるんだ、おかしいじゃないか!

 俺が今、どんな顔をしていたのか分からないけど、宇佐見はそれを落胆の表情と見たようだ
った。

「残念だったな、もうこの業界じゃ生きられないぜ。無知な素人がこんな所に出張ってくるから、
こんなことになるんだ」

 


 休み時間を挟んで、次は今見た演技を、演じるというテストを行うことになる。だけど、俺はそ
んなことよりも、永原さんの在らぬ噂に腹が立って仕方がなかった。

 そんなイライラした自分の気持ちを落ち着かせる為に、喫煙所へ向かう。もう、一服しないと
やってらんない。

 確かこの先を右に曲がった所が、喫煙スペースだったはず。

 そう思って廊下を曲がろうとしたとたん、俺はそれをやめて壁の陰に隠れた。

 その先に、さっきの柴田と大見麻弥だっけ?可愛いあの女の子がいた。

 柴田は煙草を指に挟んだ手を壁に付けていた。そして大見麻弥の顔をのぞき込んでいる。

 大見麻弥も、まんざらではない笑みを浮かべていて。

 この時ばかりは、この計算高い女が憎たらしく思えた。拳銃を持っていたら、二人とも撃って
いたかもしれない。それくらい今の光景がむかついた。

 しかし、更に腸が煮えくりかえる言葉が柴田の口から出てくることになる。

「じゃあ、俺が永原さんに君の名前、伝えておくことにするよ。君みたいな可愛い子なら、あの
人も直ぐ目を掛けてくれるよ」

「ホント!?麻弥、嬉しい!」

「だけどさ、何より目を掛けているのは、俺だってこと忘れるなよ。麻弥ちゃん」

 そう言って、柴田は大見麻弥の唇を重ねた。

 あいつ……永原さんの名前使って、新人口説くなんて。

 信じられない。

 あの人の名前をナンパの道具に使って。

 しかも永原さんから逃げたくせに、まだ付き人気取りでいる。

 柴田は大見麻弥の肩を抱いて、喫煙スペースから離れていった。あんな奴が、永原さんの付
き人だったなんて俺は認めない!

 演技もろくに出来ないくせに!脇役の頼りっぱなしの演技しか出来ないくせに!

 俺は絶対に、あいつを消してやる。あいつが永原さんの弟子だったという過去を、塗りつぶす
くらいの人間になって。

 そして永原さんの弟子だと言える、誇れる自分になってみせる!

 俺は後ろポケットから取り出そうと思っていた煙草を、もう一度ポケットの中に引っ込めた。

 その時、

「そこの君」

 陽気な声が聞こえてきたので振り返った。来嶋と同じぐらいの年頃だろうか。一瞬ショートボ
ブの女の人かと思ったけど、声は男だ。くっきりとした二重と黒目がちな目がエキゾチックな雰
囲気を漂わす。中性的な顔だけど、ちょっと太めの眉毛がかろうじて男らしさを残していないこ
ともない。どこかで見たような気もするけど……?陽気な人なのかにこにこしている、常に。

「今、煙草吸おうとして止めたでしょ?こういうときはちゃんと吸って、すーっと落ち着かなくち
ゃ」

「あ、いえ大丈夫です。それによく考えたら、今の状況の方が、次のテストに有効だってことに
気づきましたから」

「うん?」

「俺はこれから、妹を自殺に追い込んだ男を、殺しに行くところです。その為だったら、今の状
況の方が有効なんですよ」

「なるほどねー。君、名前は?」

  そう尋ねられたとき、休憩終わりのチャイムが鳴った。俺は、誰か知らないけど、俳優さんに
頭を下げる。

「浅羽洋樹です、すいません失礼します」

「浅羽君か。覚えておくね、僕、ちなみに工藤潤。来週、早速舞台稽古があるから、そん時会お
うね」

 工藤潤と名乗った人はそう言って、急いで劇場へ戻る俺に向かって手を挙げた。

 まだ入学決まったわけじゃないのになぁ。

 気が早いというか……それとも励ましてくれているのかな。

 俺はもう一回お辞儀をして、劇場へ向かって足早に歩きだした。




 先ほど、柴田がやった演技をするのが、入学のテストだという。人を殺すシーン……いきなり
凄いことをさせる。この今泰介、という人は。

 演じる順番は、さっきの自己紹介と同じく、木刀でランダムに指名される。

 最初に演じるのはプレッシャーだろうと思う。だけど、後で演じる人間であればあるほど、前
の人間の演技に影響される可能性もある。

 他人に流されない心の強か、最初という重圧に耐えられるか、形は違っても心の強さが求め
られている。

 最初という重圧を課せられたのは、なんと大見麻弥だった。彼女がどんな演技をするかは興
味がある。

「あんたの妹は実によかったよ……写真を見せただけで、驚いて、俺の言うことを何でも聞い
てくれてよ……ひひひ」

「な……なんですって……」

 震えた声……台詞にはないアドリブがきた。可愛らしい小さな唇から漏れる、怒りに満ちた声
に俺はどきりとする。

 可愛いと思っていた顔が、今凄みのある色気を出したからだ。

 鹿島さんも乗っていた。相手は女性、嫌らしい目でじろじろと麻弥を見始めている。

「 死ぬにゃ惜しい女だった……もっと、もっと金になるはずだったのによう、おかげで俺はまた
貧乏よ。どうしてくれるんだ、責任とれよ!お姉さんの身体でよ」

「触らないで!」

 女性には、女性用のシナリオがあると聞いていた。彼女の場合は自殺に追い込まれた女の
子のお姉さん役。あらかじめ殺すためのナイフという小道具も用意してある。女が男を絞め殺
すのは無理があるからだ。

 マヤは鬼気迫る顔で、ナイフを鹿島に向ける。刺された演技も鹿島は見事なものだった。「ま
ゆこ……ごめん……お姉ちゃん、優しくなんかない……お母さんみたいに立派な人じゃない」

 麻弥は言いながら、相手を刺したナイフで、自分の胸を突き立てる。ロミオとジュリエットさな
がらのラストを飾る。

 計算高い、ヤな女だけど、実力はあるな。多分、この女、この先もっとのびるんじゃないだろう
か。悔しいことに、そんな彼女に俺はわくわくしていた。演技の実力がある人間には否応なく引
かれる。彼女と一緒の舞台に立ったらどんな作品を作り上がられるのか、思わず考えてしまう
のだ。

 それから、指名されたのは宇佐見祥吾。彼は……大したことはなかった。時々台詞は噛んで
いるし、棒読みだし。

 個性派俳優を目指すと宣言した人も迫真の演技が光っていた。目を見開いて、首を絞めるシ
ーン、尋常じゃない精神の顔つきがぞくぞくさせられる。他にも、人様々、工夫した演技をする
人もいたりした。大見麻弥と同様、個性がにじみ出した瞬間、輝く人がいてとてもわくわくする。

 にじみ出た個性……。

 俺は、じゃあ何だろう?

 俺の個性は?

 来島との稽古で、永原さんのコピーになろうとしていた俺。

 ああ、そうだ。別人を演じるとはいっても、それは別人を真似るわけじゃない。

 俺が別人の気持ちになるんだ。

 先ほどまで、俺は柴田三嗣という人物に腹を立てていたけど。その腹立ちの感覚を覚えて、
俺は次の舞台に望む。

 柴田への怒りを、舞台の主人公の気持ちに変換させるのだ。

 別人を演じていても、本来は俺でしかない。

 俺しか演じることが出来ない、主人公を俺は演じる。

 覚えたばかりの怒りを持って。

「ラストは、お前が締めくくれ」

 木刀が俺の方を指してきた。

 最初の重圧と同じくらい重い、最後の重圧。

 俺は席を立った。「せいぜい頑張れよ」という宇佐見の声に、周囲の人間が笑う。どこからと
もなく、柴田の笑い声も聞こえ、俺はそちらへ目をやった。

 彼は壁に凭れ、にやにやと笑ってこっちを見ている。粗を探そうと言わんばかりの目つきだ。

 俺は思いきり、柴田をにらみつけてやった。本当は、お前を殺してやりたい所なんだよ、俺
は。

 舞台に上る。

 夢にまで見た久しい舞台だ、だけどそんな感慨は今の俺には皆無だ。

 俺は虚ろな眼差しを鹿島に向ける……殺してやりたい気持ちが、まだ芽吹く前だ。妹を追い
つめたのが、親しくしていた男。そのショックで今の俺は呆然とした気持ちになっている。

「あんたの妹は実によかったよ……写真を見せただけで、驚いて、俺の言うことを何でも聞い
てくれてよ……ひひひ」

 俺の目がゆっくりと開かれる。徐々にわき上がる怒り……俺の中で泉のようにわき上がる怒
りだ。

 怒りと同時に、信じがたい眼差しを鹿島に向ける。心のどこかで、彼を信じている自分がいる
ことを忘れたらいけない。

「 死ぬにゃ惜しい女だった……もっと、もっと金になるはずだったのによう、おかげで俺はまた
貧乏よ。どうしてくれるんだ、責任とりやが……れ……」

 鹿島の声がかすれて聞こえる。当然だ、台詞が終わる前に、俺はこの人の首を絞めていた。

 殺してやる、と思った。

 泉のようにあふれ出す怒りは、やがて憎悪に変わる。俺はこの男を殺す!

「やめろ……く……くるし……」

 妹を自殺に追いやったくせに、まだ助命を請う男の眼差しが、憎しみを倍増させた。

 指に力を込める。相手の喉に指が食い込む感覚。

 大きく見開かれる鹿島の目、彼はかすれた呼吸を最後に、白目を剥いて倒れ込む。

 人間を殺した手応えを感じた。

 俺は、この人を殺した。確実に。

 息の根を止めてやったのだ。

 永原さんの顔を思い出す……俺はあなたが誇れるような役者になれるだろうか?あなたの
名をつげても、恥にならないような役者に。

「ごめん……まゆこ……俺はもうお前の大好きな兄ちゃんじゃなくなったよ……」

 台詞が違っていたかもしれない。だけど、どうでもいい。俺ならこう言いたい気分だったのだ。
台本通りの台詞は、今の俺の気分に合わない。

 空を見上げた……兄が妹を思うシーン。

 テーブルの上、小道具としておいてある催眠薬。俺はのろのろとした動作でそれを手に取っ
た。ふたを開けて……目を閉じた。

「まゆこ……」

 台本になかった台詞だ。でも、俺なら今の言葉を発していただろう。最後に愛しい人間の名
前を呟きたい……そう思ったのだ。

 溢れんばかりに薬をてにとって、俺はそれを水無しで飲み込む。何のカプセルを入れている
のだろうか。喉にカプセルの張り付く感触がしたけど、これから死ぬ俺にとってはどうでもいい
ことだ。

 もう、どうでもいいことなんだ。

 舞台が暗転した……ん?入学生の演技では誰も暗転なんか使わなかったような……気のせ
いだろうか。

 舞台が明るくなって、俺は我に返った。

「おいおい。てめぇは役者を本気で殺すつもりか?」

 笑い混じりの声、気がつくと仰向けに寝ている俺を、今さんがのぞき込んでいた。

 俺は寝転がったまま、真面目に答える。

「もちろんです」、と。

「死んだら元も子もねーだろうがよ。分かってんのか、あやうく殺人未遂するところだったんだ
ぞ」

 今さんは、木刀の切っ先部分にあたる所を、俺の首に突きつける。俺は肩をすくめてやった。

「あやうく殺人未遂ですか……いいじゃないですか。危うく殺人じゃなくて」

「言うじゃねえか、クソガキ。鹿島はまだぶっ倒れたまんまなんだぞ、本当に殺したと思わない
のか」

「思いませんね。それに舞台の上で死にたくなかったら、殺される役なんか辞めればいいんで
すよ。鹿島さんは俺のために良く死んでくれたと思います」

 じろりと睨み付ける今さんだけど、今の俺は一つも怖くはなかった。自分で言うのも何だけ
ど、この演技には満足しているんだ。

 文句があるならいくらでも言うがいい。俺はその倍の言葉で、言い返すことが出来る。

 その時、すぐ傍、大きな笑い声が天井に響き渡った。

「おい、ジジイ!誰が起きろと言った」

「あははははは、これが起きずにいられるか。鬼の今泰介が、二十歳にもなってない子供に、
口でやりこめられる光景を目の当たりにして」

「余計なことを言うな!まだまだ、これからコイツをもっと責め立ててくれようと思ったのに」

「無理無理、今のお前が何を言っても、その子の眼差しは揺るがないよ。えーと、浅羽洋樹君
だったかな?とりあえず、立ちなさい。舞台はもう、終わったのだから」

 鹿島さんに手をさしのべられて、俺はようやく起きあがった。ふと客席の方を見たら、みんな
間抜けな顔になっていた。

 口と目を丸くして、こっちを見ている。

 そして拍手する手が、一つ二つ……それは入団希望者諸君のものじゃなくて、彼らよりも後ろ
の方で観劇していた人たちで。

 え?

 俺はまじまじと、後ろの方で見学している人たちを見る……目を擦ってから、眼を凝らす。

 今さんも、その観客の存在に気がつき、素っ頓狂な声を上げた。

「な、永原ぁ!?」

 瞬間、その場にいた全員が、ぎょっとして後ろを振り返った。たちまち歓声とざわめきが起こ
る。

 後ろで拍手をしていた人、それは紛れもなく永原映、その人だった。

 観客に普通に座っているのに、帝王さながらの風格。そこにいるだけで、入学希望者たちは
圧倒されていた。

 それに来嶋や……あれ、さっき休み時間の終わりに出会った、工藤潤という人もいる。

「永原ぁ!、てめえ、何でそんな所にいる!?」

 誰であろうと竹刀で指さし、ケンカ腰に問いかける声。他校にケンカ売っているヤンキーみた
いだな……なんか。

 さっきより、かなり子供っぽい姿の今さん。

 対して永原さん、実に穏やかに一言。

「こんな所にいたら、悪いか?」

「悪いに決まっている!貴様がいるだけで、俺は胸くそ悪くなる!」

「気が合うな。僕もだ」

「じゃあ何でここにいるんだよ!用がねーんなら帰りやがれ」

「もちろん、そうさせてもらう」

 永原さんは立ち上がって、来嶋を促してさっさと背を向けて帰ろうとするが、帰れと言った張
本人が、それを引き留める。 

 今さんは、竹刀を永原さんに向かって投げたのだ。それはまっすぐに永原さんに向かってい
たが、体には当たらなかった。

 わざと外したのか、単にはずれたのか、竹刀は先生の頭と肩の間をすり抜けて、壁に当たっ
たのである。

 当たらなかったものの、永原さんを振り向かせるには十分な効果があった。

「帰る前に、何しに来たのか言え。わざわざこんな所に、何しに来た?しかも相模まで連れて来
て」

 今さんの声音は、さっきよりも落ち着いていた。

 さっきのけんか腰とは違って、年相応の、真面目な顔になっている……この人も役者よのう。

「何しにって、僕の教え子の演技を見に」

「教え子って柴田のことか。見てもしょうがないだろ。今更。なぁ、柴田……って、どこ行きやが
った!?あのガキ!」

 本当だ、さっきまで壁に凭れて、舞台を見物していた柴田の姿がない。永原さんの姿を認め
たとたん、やばいと思って逃げたんだな。  

 すると永原さん、意外そうに今さんに尋ねる。

「何、三嗣の奴、ここに来ていたのか?」

「まぁね、生徒の(悪い)見本として、使ってやってるぞ」

 今、見本という言葉に含みがあったけど、気のせいだろうか。俺的には柴田なんかより鹿島
さんの方がよっぽど見本になると思ったけどさ。

「ああ、それはありがとう。三嗣によろしく言っておいてよ」

「おい、待て。じゃあ、てめぇが言う教え子っていうのは……」

「あれ?聞いてないの?そこにいる洋樹だよ」

 あっさり言ってしまう永原さんに、俺は思わず額を押さえた。ううう……せっかく隠し通してきた
のに。

 入学希望者の面々、さらにざわめきが大きくなる。それまで蔑んでいた人間達も、一転して、
俺の見る目が変わっていた。

「大変です、宇佐見君が倒れました」

 ざわめく中に、そんな声も聞こえてきたので見てみると、宇佐見祥吾は椅子ごと蛙のようにひ
っくり返っている。その隣にいる大見麻弥も、信じられないと言わんばかりに、何だか熱い眼差
しでこっちを見ていた。

 永原映の登場で、入団希望者たちが混乱しだしたので、礼子さんの指示のもと、俺以外の入
団希望者は帰らされた。テストは終わったので問題ないのだろう。合否は郵送で来るらしいし。

 劇場に残ったのは、俺と今さん。それから永原さんと来嶋、さっきの工藤さんもまだそこにい
た。俺は永原さんの所に駆け寄って、お辞儀をする。しかし頭を上げた次の瞬間、

 後ろから今さんが乱暴に俺の頭をひっつかんできた。

「んな話、聞いてないぞ!?貴様、何で黙ってやがった」

「言って何になるんですか?」

「……可愛くない返答しやがって。早くも性格から伝授されたか、貴様は」

 歯の奥を噛みしめたような声音で、俺に詰め寄る今さんに、来嶋が笑った。

「そいつは、永原さんと出会う前から、そんなんでしたよ」

「何?相模も知っているのか、こいつのことを……いや、待てよ、新千葉高校って……そうか!
新千葉って、相模が何をトチ狂ったのか教師やっていた、高校じゃないか!なーるほどねぇ、
貴様の息が掛かった演劇部だったら、こいつの演技もうなずけるな」

「俺は演劇部には関わっていませんでしたよ」

 その通り、来嶋は陸上部の顧問で、演劇部には携わっていなかった。

 しかし、今さんは

「嘘付け。新千葉高校……よーやく思い出したぜ。黎明館を破って、大会の優勝を攫った無名
の高校。貴様が関わってなかったら、あんな現象はまずあり得ないね」

「確かに、基礎中の基礎は、顧問に助言した覚えはありますけどね。それ以上のことはしてい
ませんよ。優勝したのは、洋樹がいたからです。こいつはね、高校の時準主役をやって、その
演技が審査員の目にとまったんです。主役も脇役も……準主役に引き込まれて、見事な演技
をしていましたよ」

 俺のことを話す来嶋は、いつになく饒舌だった。

 こっちがびっくりするくらいに……

 だけど、それよりも、俺は意外な事実に驚いていた。

 来嶋はそんな前から、俺のことを見ていたのか……あの夏の日に、初めてであったわけじゃ
なくて。

「だとしたら……シズの奴が、死にものぐるいで探していた奴は貴様のことか」

「シズ?」

「いたんだよ。そーゆー奴が」

「……」

 俺を死にものぐるいで捜していたって……。

 そういえば、大会が終わってら、半年後だったかな?大会のビデオを見たとか言って、何回
かしつこく声かけてきた奴がいたっけ。俺の映画に出てくれとか何とか言って。

 だけど、あの時はもう親の圧力で、俺は部活を辞めさせられていたし、親を悲しませたくない
からと思って、医者を目指すことにしていたから……俺はその人のことを振り切ってしまったん
だ。

「その人は、今どうしているんですか?」

「あん?今更、そいつの映画に出たいってか?虫が良すぎるぞ」

「違います……ただ、もし俺が思っている人だったら、その人に謝りたいと思ったんですよ。あ
の時、随分失礼なことしたし」

「あいつは、外国へ放浪しているから、しばらく帰ってこねーよ」

「そうですか……」

 顔自体は曖昧で思い出せないけど、目が鋭い人だった。永原さんと同じ輝きを持ったその人
に見つめられただけで、あの時俺は立ちすくんでしまったのだ。

 あの強い眼差しは、本当に忘れられない。

「その内戻ってくるよ。君がこの世界に入ったと分かれば、あの人も喜ぶだろうな。君と湊……
この先の舞台が楽しみだと思わないか?」

 そう言って、永原先生は今さんの方を見た。

 今さんは眉間に皺を寄せて、口を尖らせる。

「……何がいいたい?」

「君もそろそろ舞台復帰がしたくなったように思えてさ」

「俺はガキの教育に忙しいんだ」

「礼子さんに任せればいいじゃないか。舞台監督も楽しいだろうけど、君はまだまだ舞台を去る
には惜しい人だよ」

「鳥肌たつよーなことをぬかすな」

 とかいいながらも、どことなく満更でもない顔をしていた。

 この二人、仲がいいのか悪いのか。

 いいライバルなんだろうな、俺も今さんの舞台、生で見てみたいけどな。

「で、お前はさっきから、どうしてここにいる?入団希望者なんか興味ないから、とっとと帰るよ
ーなことぬかしていて」

 今さん、ライバルに言われたことに照れているのを隠すかのように、やや乱暴な口調で工藤
潤に問いかけてくる。

「あははは、そうしようと思ったんだけど、気が変わったの。この子見て」

 この子といって指さしているのは俺だった。

 休み時間間際に、出会ったことは覚えているけど。

「休憩時間、この子ってば、すっごい怖い顔してんの。近づいたら殺されるかなー?って思った
んだけど、近づいちゃった。そしたら、休憩終了のチャイムが鳴ったから、すぐバイバイしたん
だけど。ま、そん時にね、次の実技テストで、この子がどんな演技するのか見たくなっちゃった」

「お前が気になる役者か、こいつは?」

「気になるねー。今さんだって気にしているじゃないですか。そうだ!明日からこの子、ここに来
てもらいましょう。よーし、決まりだー」

 いきなり工藤さんに抱きつかれ、俺はどうしていいか分からない。何か一人、突っ走ってない
か?この人。

「貴様、勝手に決めるな!」

 当然、怒鳴る今さんに、しかし工藤さんはドコ吹く風。

「だって、俺気に入っちゃったよ、この子」

「お前が気に入るがどーかで入団を決めるんじゃねーよ」

「どうせ、入れるんでしょ。明日からでもいいじゃない」

 平然として言ってのける工藤さんに、今さんはがっくり首を垂れる。

 意外と苦労性か?今さん……それとも、この工藤という人が最強なのか。

「じゃあ、明日からよろしく。成海ちゃん」

 大まじめな口調で、成海ちゃん。

 それは永原さんの口から出てきたものだった。

 今さん、忽ち顔を真っ赤にして、声を荒げた。

「その名前で呼ぶな!」

「じゃあ、泰介ちゃん」

「ちゃん付けはやめろ。しかも、てめーまで勝手に決めるな!」

「はいはい。分かりました。まぁ、そういうわけだから、今日の所は帰るぞ。洋樹」

「人の話、聞けよ!」

 こうして、がなりまくる今さんの声を背に、俺は永原さんたちと共に、劇団KONを、後にした。
うーん、本当に明日から来てもいいんだろうか……ちょっと微妙だ。

 だけど、迷うことはないだろう。

 俺は多くの演技を学ばなきゃいけない、例え今さんが入団を許さないにしても、俺は食らいつ
いていこう。

 そうして、永原さんの付き人として恥じない役者になるのだ。

                                         


 その後永原さんには、大変お世話になった。フランス料理をごちそうしてくれた上に、さらに雨
が降ってきたのでタクシーでアパートまで送ってくれたのだ。

 申し訳ない気持ちで一杯になっている俺の気持ちを察してか、察してないのか、別れ際

彼はにこりと笑って言った。

「今日の演技、凄くよかったよ。みんな君の演技に魅入っていた……僕も含めてね」

 永原さんの言葉に、俺は泣きたいくらい嬉しくなった。

 本当に何だか夢みたいだ。

 永原さんの付き人として、毎日のように舞台を見ることが出来て、監督や演出家の人たちとも
お話ができたり……それから、入団のテストとはいえ、劇団の舞台に上ることができたのも、嬉
しかった。

 俺は本当に幸せ者だと思う。

 本当に幸せだ……

「あ、それと君に言い負かされていた成海の悔しげな顔も愉快だったなぁ。今度成海とかち合う
ときがあるようだったら、必ず君を連れて行くことにしよう。その時には是非君の舌戦で、どん
どん奴に屈辱を与えてやってくれ」

 くっくっくと低く笑う永原さん。

 ……やっぱりこの人、今さんのこと嫌いなのか?

 笑い声もいつになく……何というのか……邪悪だ。

 顔がなまじ天使を思わせる穏やかさだけに余計怖い。

  俺は、永原さんのブラックな一面を見たような気がした。

 それもまた、新鮮な発見だったのだけど。

今まで知らなかった永原さんの顔を見ることが出来るのは、とても嬉しいことだった。

 俺はアパートの鍵を開ける来嶋の横顔を見つめる。

 この人のおかげで、俺はまた舞台に上がることが出来た。

 あんたはもう教師じゃないけど、俺にとってはあんたは恩師だ。

 役者の道へ唯一導いてくれた、最後の教師だった。

 いくら感謝しても足りない。この人のためなら、俺はどんなことでもしようと思う。

  リビングの電気をつけ、さっそくバックから台本を取り出す来嶋。もうじき舞台が近い、彼にと
って今は、寝る間も惜しい時期だ。

「練習、つき合うよ」

 来嶋がコピーしてくれた俺用の『雨が止むとき』を棚から取り出しながら言うと、来嶋はびっく
りしたみたいだった。

「今日は、入団試験で疲れただろう?無理しなくてもいい」

「だったら、あんたこそ稽古でクタクタだろ?同じだって。それに、今日は昨日よりもマシな演技
ができるような気がするんだ」

 今日、掴んだ自分の演技を来嶋にぶつけてみたかった。役柄を、自分自身で演技すること。
誰かの真似じゃない。自分が役を演じることを忘れたらいけない。

 俺は……俺自身の佐賀を演じてみよう。

 永原さんには及ばない、来嶋にとっちゃまだ物足りない演技だけど。

 それでも俺は、今すごく演じたい気分なのである。

 「君……僕に気があるのだろう?」

  まっすぐ、来嶋を見つめる。

 眼は射抜くようにまっすぐ、彼を見つめそして、口元は不思議と笑みがこぼれていた。

  



 窓の外。

 先ほどまで降っていた雨が、また止んだ。

 窓から見える空からは星が見える。

 なんて気まぐれな空だろうか。

 気まぐれだけど……どこか寂しい。

 誰にも真似できない、俺だけの佐賀は、あの空にあった。

 ずっと前から気づいていたのに。

 俺は自分の中の佐賀を見ようとしていなかった。

 今演じる、俺自身の佐賀は秋時雨。

 これが、俺の佐賀。

 俺だけが演じる佐賀だよ、来嶋。



END       

 


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