あの冬の輝き




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  ここのところ、寒い日が続いている。冬なのだから当然なのだけど、一段と心から冷え込む
寒さだ。

 空は晴れているけれど、もしかしたら雪が降り出すのかもしれない。

 肌が指すような寒さ……。

 永原先生たちの、公演初日はもしかしたら雪が降るかも知れないな。

『雨が止むとき』

 秋から本格的な稽古が始まって以来、長かったような、あっという間だったような……いや、
俺が出るわけじゃないけどさ。

 近くでずっと永原さんや来嶋の練習風景を見てきたから ───

         

「こらぁ!浅羽ぁ、貴様何よそ見してやがる!?てめぇは、キック力が弱い!そんなんじゃ敵は
倒れないぞ」


 朝一番から、怒鳴り散らすのは劇団KON主宰の、今泰介(いま たいすけ)氏である。

 敵とは何に対する敵なのか?。

 今しているのは舞台の特訓の筈だ。しかし、何故かやっていることは中国拳法の稽古……ど
うなっているのでしょう。

 ただ、舞台で必要なバランス力、柔軟力、腕力、気力、などは養われるのだと思われる。あ
と、体力もね。

 アクション俳優だったら、実践にも役立つだろうな。そう思えば、まぁ、こういった厳しい特訓も
嫌ではない。

 俺はひたすら天に向かって、蹴りを入れ、拳でもって空を切る。

「足を、あと三センチ上げろ!浅羽、そんな情けないキックがあるか!?」

 あと三センチぃ〜!?

 殆ど180度じゃないか、上海雑伎団じゃねーっつーの。

 俺は今さんに怒鳴られることが多々ある。

 しかもこういった無理難題を言われることが殆ど。

 あんまし考えたくはないのだけど、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、というあれに思えてならない。
俺が永原さんの付き人だからか、こういうレッスン以外でも、今さんは何かと俺に当たることが
多い。

 今さんは、永原さんのライバルだ。

 舞台の帝王、永原映(ながはら えい)。

『奇跡』と呼ばれた舞台に最高の華を咲かす名優の中の名優。

 俺は幼い頃からずっと、あの人に憧れていた。本来なら雲の上の存在であるその人の付き
人になったのは、一人の教師との出会い。

 その教師は、名優織辺拓彦(おりべ たくひこ)の弟子で、相模ひろしという芸名を持ってい
た。彼は再び舞台に立つために、教師を辞めたついでに、俺を学校から連れ出して、永原先
生に紹介したのである。

 相模ひろしの本名は、来嶋湊(きじま みなと)。

 現在、永原先生と共に舞台の総仕上げにかかっているところだ。

 秋の終わり頃まで、自分の演技に行き詰まっていたみたいだったけど、冬に入った頃から
は、自分の演技を完全に掴んできたらしく、練習舞台の上では、永原先生と息のあった演技を
している。永原先生も来嶋の演技が良くなるたびに、輝きを増していた。

 俺もあんな舞台に立てたらな……

 まだまだ遠い夢だ。その夢に近づくために、今俺はここにいる。

「浅羽!足がまだ上がるはずだ!」

 竹刀を床にたたきつける音と同時に、向けられる叱咤。それでも、俺は今楽しくてしかたがな
い。辛いけど……でも、楽しいのだ。



「んもー!あたしは演技を習いに来たのよ!何で、こんなK─1目指すようなことやってなきゃ
いけないのよっ!」

 可愛らしい声だけど、いささかヒステリックな声を上げているのは、俺と同じく劇団入団したて
の、大見麻弥(おおみ まや)だった。五人中四人は振り返る可愛い女の子だけど、結構打算
的であることを俺は知っている。

 自分がのし上がる為に、色気でコネを作っている現場を何度か目撃しているからだ。

「あいたたた、もー、最悪ー。あっちこっちで筋肉痛よぉ」

「あははは」

 腰をさするマヤの姿が、顔に似合わず年寄りめいていて、俺は思わず笑った。

「何よ!あんた、よくそんなヘラヘラ笑っているわよね!」

 麻弥は、憎たらしそうにこっちを睨んでくる。俺はひょいと肩をすくめた。

 彼女は俺が永原さんの弟子だと知ったとたん、掌を返したようにすり寄って来た時期があっ
た。でも、彼女の本性を知っている俺は、あんまり相手にしなかった。

 それが、屈辱だったのか、最近ではもはや開き直ったかのように、俺の前では本音を漏らす
ようになっている。

 稽古場の隅に置いてあるパイプイスに腰掛けて、俺は首に掛けていたタオルで額を拭いた。
麻弥も、フンと言いながらも、隣のイスに腰掛けて、側に置いてあるバックからスポーツドリンク
を取り出す。

「そういうお前こそ、楽しくねーの?せっかく入団できたのに」

「楽しいわけないじゃない!あたしは舞台の上で演じたいのよ!」

「でも、今の状態じゃ、ろくなのが演じられないだろ。基礎がなってないんだから」

「ムカツクわねぇ!同じぺーぺーのあんたに言われたくないわよ!あんたこそ、舞台の上に早
く立ちたいと思わないわけ!?」

「もちろん、一刻も早く立ちたいのが本音だよ。だけど、まず自分を磨かないとな。満足いく自分
ができあがらないと、良い舞台なんか出来ないじゃん?」

 そう、舞台に上るにしても、人を魅了させなきゃ意味がない。そして、人を引き込む世界がな
いと、そんなものは舞台じゃない。

 俺はそんな世界を作り上げる人間の一人になるのだ。

 しかし、そんな俺の考えを、目の前にいる女はいつも白い眼で見るのであった。

「あんたってさ、毎回毎回思うんだけど、ほっんとに、役者馬鹿よね」 



 劇団KON

 名前の由来は、今さんのあだ名から来ているらしい。名字を音読みしたのが、この人のあだ
名。だけど、この前、冗談だろうけど、本人が「あれはKO永原の略だ」と言っていたっけ。

 秋にオーディションがあって、一三人いた希望者の中で、合格したのは俺と大見麻弥だけだ
った。本来ならオーディション希望の人間が数百人以上来てもおかしくない、知る人ぞ知る劇団
なのだけど、いかんせん主催者である今泰介氏は、超がつく気まぐれ。

 入団生募集をやると、思い立ったら三日後にはオーディションを、やっちゃうような人なのだ。
だから、常に今さんの行動にアンテナを張っている人間だけが、オーディションにこぎつけるこ
とができるのであった。俺は、師匠である永原さんの紹介でここに来たんだけどね。

 永原さんも気になるんだろうな、今は舞台を退いているとはいえ、主宰をやっている、今泰介
氏は、いい好敵手なんだろうと俺は思う。

 だけど、さすがに主宰が気まぐれでも、劇団におけるカリキュラムはしっかりしたものだった。
発声練習、柔軟運動、演技の基礎、さっきの中国拳法もその中の一つ。うーん、香港の役者さ
んたちは、俳優養成学校みたいなトコで、カンフー習うとは聞いていたけど、

どうやら、この劇団でもその流儀を取り入れているらしい。しかも、今さんは実家が道場らしい
ので、武術が演技の役に立つということを身をもって知っているに違いない。

 稽古時間は午後二時から、九時まで……というのは、あくまで新米の時間割だ。これが舞台
に出るようになる先輩たちになると、一日の半分は稽古に費やされる。

 劇団へ行く時間以外、俺は永原先生の付き人として、働かなきゃいけない……とはいっても、
付き人とは常に付いていてこそのもの。永原さんは多忙な人だ。来嶋と共演する舞台だけじゃ
なく、映画にも出ているし、雑誌の取材を受けたり、モデルの仕事をやったりと、テレビにはそ
んなに出ていないけれども、息もつく間もない忙しさなのだ。舞台の大詰めである最近は、ほと
んど舞台中心に動いているけれども。とにかく、本当なら常に一緒にいなきゃいけないのに、大
半はKONへの授業で時間を費やされてしまう。こんな半端な状態でいいのだろうか、永原さん
に尋ねたら、当分は劇団を優先にするように、と言われた。

 永原さんは、師匠として、本当に俺が役者として向上することだけを考えてくれているのだ。
俺はそんな、永原さんにどんなに感謝しても足りないし、この人のためならどんなことでもしたい
と思っている。

 朝、俺は永原先生のを迎えに、マネージャーの紺野さんと共に先生の自宅へ向かう。さすが
に大物俳優だけに、住んでいる家はもはや家ではなく、屋敷だった。しかもメタリックな扉が印
象的なモダン邸宅だ。有名な建築家が設計したらしく、外観も白に塗られたコンクリートの壁と
黒いタイルのオブジェを思わせる芸術的なものだけど、中も家具や飾り部屋にマッチしたデザ
インで、そのまんまモデルルームになりそうな家だった。

 それだけ、永原さんの邸宅は生活感を感じさせなかった。

 俺ん家も、自分で言うのも何だけど、周りの友達から屋敷、屋敷と言われてきたけど、ここと
比べたら、まだこぢんまりしている方だ。  

 俺は朝食を作る係で、紺野さんは運転手係。彼は、元々俳優を目指していたらしいけど、自
分の実力の限界を知って、せめて演劇関係で働きたいと志望していた人らしい。

 学生時代には柔道をしていたらしく、体格がいい。目尻は下がっていて優しいものだけど、顔
全体は精悍そのもの。スーツを着ていると永原さんのマネージャーというよりは、SPに見えた。

 で、朝食係の俺だけど、人にご飯を作るということをしたことがなかった……えー、一応、坊ち
ゃんだったもんで。初めて、その命令が下され、戸惑っている俺に永原さん、温厚な笑顔で言
ったのであった。

「ん?ご飯、作ったことないの?……じゃあ、明日までに作れるようにしなさい。

「……」

 そりゃあ、ただ料理を作るだけなら別にいい。しかし、食べる相手は大物俳優だ。

 当然、舌だって肥えているだろうし、失敗なんか許されない。

 もう、その日はずーっとレピシの本を読みまくりましたとも。夕ご飯の時には、来嶋に実験台
にもなってもらったし。

 来嶋は「マニュアル通りに作れば間違いはない」と、俺を応援して……くれたんだと思う。

 しかし、後になって分かったことだけど、これもまた演技の練習だったらしい。

 緊張しまくりながら、料理をする俺に、「自分の行動をよく把握しておくように。料理一つでも君
自身がでてくるからね」と言ったのであった。自分の何気ない癖や動きを意識するのが大切
だ、と永原先生は教えてくれたのである。

 最近では、「指先に緊張感をもたせて、このご飯粒を掴んでみよう」とか「コーヒーを並立たせ
ないように運べ」などと注文をつけてくる。今日はコーヒーを運ぶ際に、頭の上に本をのせられ
た。この本が落ちないように、コーヒーを持ってくるようにって……一瞬、この人俺で遊んでない
か?と思っちゃったけどね、流石に。

 だけど、何とかそれをこなした俺に、永原さんは拍手して言った。

「君はバランス力が抜群だね。他の子にこれやらせると、何回も本を落とすのに」

「ほ、他の子にもさせていたんですか?」

「うん。僕や成海もやっていたよ。成海はがさつだからねぇ、何回も落としていたけど」 

 成海とは、永原さんのライバルである俳優、伊東成海(いとう なるみ)のことを指す。本名は
今泰介。言うまでもなく、劇団KONの主宰者をやっているあの人のことである。

 まぁ、そんな調子で朝食を終え、俺は永原さんの着替えや、タオル、洗面用具などを纏め、紺
野さんが待つ車へと乗り込む。車種はフェラーリだけど、限定車で相当高いんじゃないかと思
う。俺の従兄弟が持っていたのもフェラーリだったけど、何だか格が違うのだ。

 紺野さんが、朝から運転手を買ってでるのは、どうも永原さんの車を運転したいが為らしい。

「前の車はマークUだったからさ、しかも中古の。そん時は、運転手なんかしなかったんだよ」

「マークUの中古!?えらくグレードが違うじゃないですか」

「あの人、本来は乗り物にはこだわらないのよ。でも、貰ったから仕方がないって」

 ……はい?

 俺は思わず目が点になりましたぞ。

 貰ったって、このフェラーリをですか?しかも限定車の、超高級なもんを?

「アメリカの映画監督からの誕生日プレゼントだって。永原さん、どうもその監督に惚れられて
いてさ、前回は、数百本のバラが来たなぁ」

「惚れられて……あー、永原先生の実力って、世界でも評価されていますもんね」

「もちろん、演技の実力にも惚れているんだろうけど、永原さん自身に気があるとみたね、俺
は」

「その映画監督って女?」

「いいや、男。ゲイで有名だし」

「……は……そ、そうですか。いやー、猛烈なアタックですね」

「そうだろう?でも、永原さんは奥さんに惚れているからね。車一台じゃなびかないよ」

「先生の奥さんか。そういや、未だ会ってないなぁ」

 永原先生は、ああ見えても妻帯者だ。奥さんも有名女優なんで、家に帰ってくることはあんま
りない。それでも、夫婦仲は悪くないというのだから、不思議だ。

 その時、丁度永原さんが玄関から出てきて、後部座席に乗り込んだ。

 紺野さん、ちなみに運転はあまり上手じゃない。下手の横好きとはよく言ったものだけど、ブ
レーキのタイミングに冷や汗をかくときがある。前の車にあと三センチの車間で止まることもあ
れば、快調に走っているかと思いきや、赤信号に気づき急ブレーキをふんだりして。故に、最
近では助手席の俺が免許もないのに、自動車教習の教官の如く、紺野さんをアシストしてい
る。

 そんな具合で、今日もはらはらしながらも、稽古場へとたどり着いた。

 総仕上げだけに、作曲家の人や芸術監督の人なんかも、顔を出すようになっていた。 

 俺は二人に挨拶をすると、作曲家のおじさんの方が、ぽんぽんと頭を叩いて言った。

「ははは、君が永原の弟子か。前の弟子だった奴は礼儀がなっていなかったけど、今回は、本
当にいい子が来たってみんな言っているぞ」

 その言葉に、俺は何だか照れくさくなって、思わず床の方を見る。そう、最初の時は、俺を見
るスタッフの目は、結構冷たかった。前の永原さんの弟子が、相当態度が悪かったらしく、俺も
そいつと同一視されていたのだ。

 だけど、最近はみんな親切で、分からないことがあったら、親切に教えてくれるし、他の役者
の人たちも、演技について色々俺に教えてくれたりする。

「須藤君も言っていたよ。舞台を見て目を輝かせている君を見ていたら、若い頃を思い出すっ
て。君は、本当に舞台が好きなんだね」

「はい!」

 作曲家のおじさんの言うとおり、俺は舞台が好きだった。永原先生の舞台を見た時から、俺
は無性に舞台という世界に引き込まれた。あそこへ行きたい……あんな風に演じてみたい。

 こうして準備中の舞台を歩いているだけでも、何だか幸せな気分になる。いつか、この舞台
の上で、俺も最高な演技ができたら……まだ、まだ遠い夢だけど、でも一歩だけ夢には近づい
ている。

「洋樹、須藤さんがまだ来ていないんだ。ちょっと、君が代読してくれないか」

「はい!喜んで」

 ここにいるキャストの皆さんには、とてもじゃないけど適わないけれども、それでも永原先生の
役に立てるのであれば、精一杯の演技をしようと思う。

 須藤さん演じる刑事の役……初老の刑事……自分が初老じゃないだけに難しいな。

 しかも、暗殺者である佐賀を演じている永原さんを追いつめる役なのだ。うう……もう、目の
前にいるだけで、俺が追いつめられそうな気分だけど。

 ワンシーンの台本を読んで、台詞を頭の中にたたき込む。暗記は昔から得意で、来嶋にも記
憶力の良さだけは褒められている。

 永原さんは、既に演技に入っていた。セットのソファの上にけだるそうに寄りかかり、遊女を
思わせる上目遣いの眼差しでこちらを見つめている。

 俺は台本を丸めて、棒状にしたそれを永原さんののど元に突きつける。本番では警棒を突き
つけている設定だ。

「何をするのかなぁ……刑事さんは」

 くすりと妖艶に微笑む佐賀。細長い指を口元に当てている仕草……その何気ない仕草が、
心臓を揺さぶる。

 刑事である俺の目は、否応なく佐賀の唇を見つめてしまう。そして、そんな自分に怯んで、思
わず突きつけていた警棒をのど元から離してしまう。台本通りの演技は出来ているけど、ほと
んど永原さんに引っ張られている状態だ。俺は刑事を演じるまでもなく、永原さんの仕草に動
揺していたのだから。

 だけど、自らを奮い立たせて、俺は警棒を佐賀の喉に食い込ませるように突きつける。

「とぼけるなよ、佐賀。磯部を殺したのは貴様だろう」

「磯部?誰です、それ」

「知らないとは言わせんぞ。この前、磯部らしき男と、貴様が歩いている姿を見た、という目撃
者がいる」

「あははは、磯部らしき人じゃ、逮捕出来ませんね。僕はその磯部さんに似た人と歩いていた
のかも知れません」

「き……貴様という奴は」

 僕は佐賀に掴みかかる。何人もの人間を殺しておいて、平然と笑っている暗殺者を、彼は許
すことが出来なかった。

 憤怒の形相を浮かべる初老の刑事を、冷めた眼差しで見つめる佐賀。

 俺はその茶色がかった瞳の奥……瞳孔が深い闇につながっているんじゃないかと思った。

 底知れぬ、冷ややかさ。だけど、全身は恐ろしくも妖艶な雰囲気で、俺は息を飲む。

 このまま……押し倒してしまいたいという衝動に駆られてしまう。

 駄目だ、これは演技だ。

 目の前にいる人は、妖艶な佐賀を演じているに過ぎない。

 何度となくそれを言い聞かせながら、俺はやっとの思いで佐賀を突き放すことが出来た。

 そして、ラストは老刑事の捨て台詞。

「いいか!俺はこの刑事人生をかけて、必ず貴様を逮捕する!今に証拠を突きつけて、貴様
を牢に送ってやるからな。首を洗って待っていろ!」



 ぱらぱらと拍手が響いた。スタッフや、他の役者さんたちである。

 いつの間にか俺と永原さんは、全員の注目を集めていたらしい。老刑事になりきって、永原さ
んを指さしていた俺は、頭に血が上る思いだった。

「いやー、凄いね。威勢の良い老刑事だったよ」

「やっぱり若い人がやると、元気がいいですよね」

「大したもんだ。その若さで、永原先生に気後れせずに演じられるのは」

 気後れせずに……いいや、そんなことはない。俺はもうあっぷあっぷの状態で、永原さんの
演技に引きずり込まれないように、必死だった。台本通りに動いて、喋るのがやっとの状態。

 この舞台へ立つまでが、何だか遠い、千里もの道に感じてしまう……それほどまでに、永原さ
んの演技には圧倒された。

「よっ、お疲れ様」

 舞台の袖から、来嶋が出てきた。俺の肩をポンと叩いて片目を閉じる。

 その瞬間、俺の背中はどっと汗が噴き出した。

 来嶋がこっちにやってきて、ほっとした瞬間、それまでの緊張感が体から、あふれ出たみた
いだった。

「何所在なげな顔してんだ。今の演技を見て、お前に目をつけたスタッフもいるんだからな。しっ
かりしとけ」

「だけど……」

 俺が演じたい刑事はこんなもんじゃなかった……本当はもっと腰が据わった、永原先生の雰
囲気にも動じない岩のような人を演じたかったのだ。だけど、あんな地を丸出しにした演技にな
ってしまって。

「おやおや、君は自分が演じた刑事になっとくしていないようだね」

 来嶋に続いて、舞台の袖から現れた厳めしい顔が印象的な須藤さん。この人が本来は刑事
の役をするのだ。

 俺はこの人の代役に過ぎない。だけど、納得した演技が出来ない悔しさは、たった一時の代
役であっても変わらない。

「一回で、自分の納得いく演技が出来たら、稽古なんて必要ないだろ?私が今の刑事役が型
にはまりだしたのも、本当に最近のことだ」

「それでも俺は……」

「今の状態が悔しいか。それでいいんだよ。納得していない自分がいないと、人間は伸びやし
ないのだから。君は、今するべきことを精一杯やればいい。そうすれば、いつか……ね?」




 いつか……

 須藤さんは敢えてその後は言わなかった。どんなに頑張っても、夢に届かなかった人たちを
何人も知っているからだと思う。

 俺だって、その内の一人になるかもしれない。

 それでも、もう俺は今、先の見えない未来を、まっすぐ歩くことしか考えられない。

 夜、先生や来嶋の稽古は十時に終わるから、それに間に合うまで俺は劇団KONの練習風
景を見学させて貰う。KONの役者さん、一人一人の演技をじっと見つめる。それぞれ個性が
あって、工夫があって、台詞の一言一言すら聞き逃せない。みんなが熱くて一丸となっている。

 時々、指名された特定の役者だけで集中稽古をする抜き稽古をする時は、出番のない俳優
さんや女優さんに立ち稽古の相手を頼まれることもある。それから、来ていない役者に代わっ
て代役をしたり。

 時々今さんに「そんな演技じゃ、工藤の演技の質もおちるだろうが!やりなおせ!」と駄目出
しをくらうこともあるけど。

 けれども、本番舞台に立つ訳じゃない俺の演技まで見ているのだから、今さんは凄いと思う。

 劇団の中で、ピカイチだったのは、やはり工藤さんだった。一見、エキゾチックな美少女を思
わせる顔立ちだけど、今演じている『村岡鬼刃(むらおか きじん)』は、外見とは対照的な精悍
な若者だ。しかし、工藤さんが演じるとそれが型にはまる。

 長いざんばら髪を一つにくくり、あの細身の身体からどこからそんな馬鹿力がでてくるのか、
大太刀を模した木刀を振りまわし、腹から出てくる今さん譲りの、朗々とした声音を聞いている
と、顔は可愛らしくても内面の精悍さがあふれ出てくるみたいだ。

 村岡鬼刃は空想上の人物である。大名である斉藤家に使える、村岡家の跡取りだった三郎
丸は、幼い頃から恐ろしいまでの実力を発揮する。まるで鬼神に取り憑かれたように刀を振る
う我が子を見て、父親は三郎丸のことを鬼刃と呼ぶようになる。

 刀を振るう工藤さんの姿は、まさに目を見張るものがあった。本当に人を切る勢い、刀で人を
斬る構えやタイミング、体勢なんかも、戦国時代に振るったであろう刀裁きを忠実に再現してい
るみたいだった。

 やがて戦でもその実力は瞬く間に発揮され、鬼刃は蝮と呼ばれる主君、斉藤道三(さいとう 
どうさん)に気に入られる。そして尾張へ嫁ぐ娘、帰蝶の身辺警護を依頼される。しかし事もあ
ろうにその帰蝶と恋に落ちてしまう。尾張の織田信長との出会い……その人柄と、強さに惹か
れる鬼刃。


「駄目だ、駄目だ、駄目だ!!おい、小見山。おまえが工藤に飲まれてどーすんだ!?お前は
信長、工藤が鬼刃だぞ!?お前が工藤を圧倒させる役だろ!?」

 信長役の小見山さんは、額に汗を浮かべ俯く。

 一重の切れ長の目、瞼はやや膨らんでいて、色白の細面だ。どことなく肖像画の信長似の小
見山さん。劇団の中で信長を演るのであれば、まさにこの人が適役だ。

 それに実力からしても、工藤さんの相手になるのはこの人しかいない。

 だけど、確かに今の小見山さんは工藤さんに押され気味だ。

 初めて信長と対面する鬼刃。

 斉藤家の刺客らしく、冷静に相手を見据える眼差しは、こちらから見ていても、ぞくぞくする。
何だろう?クールな色っぽさ?静謐から醸し出される美というのか。

 本当に工藤さんは凄い。

 実力は多分来嶋と同じぐらいだろう。周囲のスタッフや俳優さえも、その演技に魅入られてい
る。

 もちろん、俺自身も。

 なんか………………惚れそう。

「とりあえず、次のシーンだ。帰蝶、早く出てこい!」

 今さんに怒鳴られて、帰蝶役の女優さんが慌てて舞台へ上がる。

 入れ替わり、工藤さんは舞台から降りる。

 そして俺の方に歩み寄り。

「今日も頼むよ」

 と片目を閉じる。

 暫く出番がない鬼刃役である工藤さんは、その間俺と練習をしたいという。他の役者さんたち
もいるのに、と俺が言うと彼は笑って。

「他の人たちは自分のことで手一杯さ。何しろ、どんな些細な失敗でも、今さんの雷が落ちてく
るからね。キャストもスタッフもピリピリしているよ」

 そう言う工藤さんは一つもピリピリしていない。多くの舞台を踏んできた経験豊富さ故か、元
からプレッシャーには強いのかはわからないけど。

 俺は、今舞台で演じている信長の代読をする。自分より少し下の少年を、部下としてではなく
友のように接している。

「ああ、やはり遠出は快晴の日に限る。見ろ、鬼刃。まるで山が波のようだ」

 あたかも眼前に稜線が広がっているかのように、俺は台本を片手に、正面を指さす。

「本当に……あの方向は、京の方でしょうか?」

 鬼刃を演じる工藤さんも、そこに風景が広がっているかのようにまぶしそうな顔をする。

 遠い国へ馳せる憧憬、その表情はどこか無邪気で、幸福そうで。

 なまじ元が美少女顔だけに、何とも言えない色気すら感じる。

 俺は思う。この鬼刃は、信長と共にあることが本当に幸せなのだ。生まれて初めて、友と呼
ぶことができる存在が出来て嬉しそうな心情が、こちらにも伝わってくる。

「鬼刃は京へ行ってみたいか?」

「それはもう!その昔叔父上から聞いたことがあります。かの地はまるで夢のような都だった
と。色とりどりの織物が並び、見たこともない装飾品や茶道具なども沢山みることができると」

「ほほぉ、そなたの叔父上は京に赴いたことがあるのか」

「はい、叔父上は商人でして。父は武家なのですが、母は商家の娘。母の弟にあたる叔父上
は、何度か京へ仕入れへ出かけると申しておりました」

「そなたの父上は先見の明があるやもしれぬな。これからの戦に於いて商人との関わりは疎か
にできぬ。そう……いつしか、あの山の向こう、京へのぼるためにも」

 俺はその時、ふと思い出していた。

 いつかあの世界へ行こう……舞台を見ては、心の中で呟いていた自分。

 俺が舞台を見つめていたように、信長もまた山の向こうの都に思いを馳せたのだろうか。

 その道はあまりに遠くて、途方に暮れやしなかったのか。

 いいや、きっと彼なら、自分の力を信じたに違いない。

 そんな信長みたいな強さが、俺にもあったらと、ふと思う。

 俺は工藤さんの方を見た。

 彼はビックリしたように目を見張る。俺に驚いたわけじゃなく、そういう演技なのだ。

「鬼刃、道三の爺など捨てて、儂と共に京へ来ないか?」

「信長様……?」

「儂と共に来い!鬼刃」

 それから、舞台は暗転し、鬼刃である工藤さんだけにスポットライトがあたる。帰蝶への思
い、そして信長との友情に苦悩する心情を、台詞にする。

 その切ない眼差しは、見ている側の心を突き刺すようだ。俺まで苦しく、切なくなるみたいだっ
た。

 しかし。

「駄目だ、駄目だ。そこの信長、まるでなってねーぞ」

 そこの信長……もちろん、俺のことである。

 いつのまにか今さんが、竹刀で肩を叩きながら、こちらをみていた。

「何言っているんですか。この子、この役演じるのは初めてなんですから。初めてとは思えない
演技ぶりだったでしょ?今さん」

 僕をかばうように言う工藤さん。俺は何故かこの人に気に入られているらしい。

 しかし、今さん、そんな工藤さんの頭をこつんと竹刀で叩く。

「痛っ!何するんですか?」

 もちろん手加減して今さんは叩いているのだろうけど、竹で叩かれるのだから、ある程度は
痛いのも無理はないと思う。

「そーゆー半人前が図に乗るようなことを言うな」

「図に乗らないですよ!浅羽君は」

「あいつの弟子なら図に乗るさ。柴田の野郎みたいにな」

 今さんのその言葉に、俺はかちんと来た。

 んだって、あんな奴と一緒にしやがるんだ。

「永原の奴もお前みたいに、褒めるようなことしかしなかった。だから、あんな大根役者が完成
しちまったんだぜ。よーく覚えておけ、こいつはまだまだ半人前だ。その現実を思いしらせるこ
とだけを言ってやれ」

 そう言って工藤さんに向かって、竹刀を突きつける今さんに、俺は唇を噛んだ。

 違う、と言いたかった。

 だけど、確かに永原さんは言っていた。自分は褒められて伸びてきた人間だったから、前の
弟子にもそうしてきた、と。しかし、その教え方は万人に通じるじゃないことがわかったとも言っ
ていた。

 俺は思い出す。永原さんが、ある日どこか照れくさそうに俺に話してくれたことがあった。

『どんな教え方が君にとって伸びるのか、さんざん考えたよ。でも、考えても、考えても思いつか
なくてね……僕は怒るのは苦手だし……だから、考えたんだ。僕にしか出来ない、僕の教え方
を』

 今でも、永原さんは俺の演技を貶したりはしない。だけど、だけど

「おめぇも、あの野郎の褒め言葉なんか信じるなよ?あいつは弟子に対しても、社交辞令のよ
うなことしか言わねーからな」

 そう言って笑う今さんに、俺は頭の中で何かかが切れたのを感じた。ああ、これが本当にキ
レるという奴なんだな、とどこか遠くで冷静な自分がいることも感じていた。

「確かに……先生はあなたのように、厳しいことは口には出しません」

 声が震えていた……ガラにもなく、自分の感情が声にも現れていた。それほどまでに、怒髪
天を衝いている自分がいたのだ。

「浅羽?」

 不思議そうに問いかける今さんが、どんな顔をしているか分からない。俺は下を向いていた
から。

「だけど……あの人は全身で俺に教えてくれます。俺がまだまだ、情けないくらいヘボで、台詞
回しも、立ち振る舞いもなってやしないことを、全力の演技でぶつけてくることで教えてくれま
す。容赦のないあの人の演技は、百聞にも勝ります……それを……」

 そう、先生は俺の演技に対しては何にも言わない。

 貶しもしないし……だけど、代読の時でも全力の演技でぶつかってくる。本物の永原映の演
技を見せてくれる。

 何も言わなくても分かる……否応なく見せつけられる高い壁。そして、肌で感じる本物の演
技、細かい仕草や工夫、アドリブなんかも全て見ることで覚える。

「あ、浅羽君。今さんは悪気があって言ったわけじゃないんだよ」

 俺の心情をくみ取った工藤さんが慌ててフォローしてくれる、のは分かっていたけど、それで
も俺は言わずにはいられなかった。

「悪気があろうがなかろうが、あなたの言葉は俺には許せない……あんたに、何が分かるんで
す!?永原先生の何が!?」

 俺はどんな顔で、今さんを見ていたのか。眉間に皺が寄っていて、くってかかるような顔をし
ているのか。

 そんな俺を見下ろす今さんの目は、先ほどよりも冷ややかなものになっていた。その冷めた
眼差しが、一瞬鋭くなったと思った瞬間、腹部に衝撃を感じた。

「今さん!?」

 悲鳴のような工藤さんの声。

 何が起こったのか分からなかった……分かった時には、無意識に腹を抱えて蹲っている自
分がいた。

 腹部を竹刀で突かれたのだ。真剣だったら、腹を貫かれているところだ。

「今の台詞、そっくりそのまま貴様に返してやるよ、お前如きに、俺の何が分かる!?永原の
教えがいいんだったら、もう少しはマシな演技ができたっていいだろうが!!」

 今さんは俺に歩み寄って、仰向けになって倒れる形になっている、腹の中心を木刀で押さえ
つけた。俺は一瞬嘔吐感のようなものを覚えた。

「だいたい、永原の教えが不満で、てめぇはここに来たんだろうがよ」

「ち……違う」

「じゃあ、ただのスパイか?」

「そ……そうじゃない」

「そうじゃない証拠なんてねぇよな。てめえのような学芸会演技しかできねーような野郎が、永
原のイイトコを言ったところで、全く説得力がねーんだよ!分かるか?てめぇは、まだまだ、あ
いつを立証できるような器じゃねーってことだよ!!」

 最後に思い切り蹴られて、俺は意識を手放した。

 きっと俺があそこで気絶しなかったとしても、何も言い返せやしなかっただろう。

 今さんの言葉は、あまりにも的を射ていて……そう、俺に立ちはだかる現実そのもので……
悔しすぎる、現実そのもので。




続く    




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あの冬の輝き2

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