あの夏の日



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 夏の日だった。

 受験生の夏。

 俺は途方に暮れていた。

 夏の日差しが高いと、空も高く感じて……何だか途方に暮れる。

 クマゼミの声さえなければ、気分的に少しは涼しい気もした。でも、町中の蝉を一掃すること
なんかできるわけじゃないし、考えても仕方のないことだ。

 にしても学校の屋上は、日陰が少ないので、くつろぐ場所にはあんまり向いていない。

俺は制服の胸ポケットから、潰れかけたセブンスターの箱を取り出した。

 あと二本しかない……また補充しとかなきゃな。

 二本ある内の一本をくわえたその時。

「俺にも一本くれ」

 急に正面が日陰になった……と思いきや、こちらに差し出す手の平が一枚。

「……」

 俺は怪訝な顔をして、そいつを見上げた。

 そいつは親しげな友人に接するかのように、気さくな笑みを浮かべている。

 えーと、誰だったかな。

 知っている顔ではあるが、名前忘れた。

 これといった特徴が見あたらない顔だ。あえて言うなら一重のようで、実は奥二重の目くらい
だろうか。

 らしくない姿。

 普段はたしか、かっちりネクタイを締めていたはず。それに授業中は眼鏡を掛けていたような
気もする。どっから見ても、真面目な奴。真面目故に、面白みもない人間として、見られがちな
奴だと、俺は踏んでいるのだけど。

 今、俺の前で煙草を強請っている奴は、ネクタイを緩め、ワイシャツも第一と第二ボタンを外
している。それに眼鏡も掛けて無くて、別人みたいだった。

 奴はもう一度俺に言う。

「煙草、俺にもくれないか」

「……いいけど、あんた教師だろ」

「教師は未成年じゃないから、法律違反じゃない」

 俺が差し出す潰れたセブンスターの箱から、残り一本を取り出しながら、その教師は平然と
言ってのける。

「そりゃそうだけど……その前に、俺に何か言うことないわけ?」

「あ?ああ、未成年の喫煙は法律違反だぞ。お前、知らないの?」

 今頃気づいたかのような口調……変な奴だ。

「知っているけど」

「じゃあ、勝手にしろ。分かっててやっているんじゃ、ここで注意した所で無駄なだけだからな」

「何でそんなこと言えるわけ?」

「前例がある。今のお前みたいに、休み時間屋上に行っては、煙草吸っていた奴を知っている
からな。教師がどんなに注意しても聞きやしねぇの」

 煙草を一度口から外して、教師はそんなことを言う。煙草を持っていない方の左手は、ライタ
ーを寄越せといわんばかり、こちらに突きつけてくる。

 ライターじゃなくマッチなんだけど、俺はそれを渡す。

 意外に思ったのか、しばらく彼はマッチ箱を上へかざし、それを眺めていた。

「俺以外で、ここで煙草吸っている奴なんて、見かけないけどね。俺が入学する前の話?」

「十年くらい前の話だ」

「十年前って……」

 どっから見ても、この教師はまだ三十歳にはなっていないようにみえるのだけど。

 不思議そうに見上げる俺に、そいつは自慢げに言った。

「何を隠そう、俺のことだ。喫煙歴十年。参ったか」

「じゃあ、法律違反してんじゃねぇか」

「んなもん二十歳になったら時効だ」

「……呆れた教師だな」

「そういうお前は、呆れた生徒会長だな。新千葉高校きっての模範生も、一皮むけば喫煙野郎
か」

「元生徒会長だよ。半年前にとっくに駒田が引き継いでいる」

「あのチビ駒か。通りで部活に来ねぇわけだ」

 マッチを擦って、煙草に火をつける。そして、マッチ箱をこちらに投げた。

「そういや陸上部の顧問だったけ」

「まぁね」

「この前、地区大会で二位になったらしいじゃない」

「……」

 教師は、それには答えず、ふっと煙草を空に向かって吹き付ける。

 溜息が煙になったみたいだった。

 しかし、しばらくしてから 

「ま、才能がある人間が何人かいたからな」

「ふうん?去年書記やっていた奴が、あんたのこと真面目すぎで詰まらないって言っていたけど
な……噂と全然違うじゃん。猫かぶっていてしんどくないわけ?」

「演じるのは別に嫌いじゃい」

「ふうん」

 やっぱり、変な教師だと思った。

 予鈴がなったので、俺は教室に戻った。その教師は……屋上の手すりにもたれ、景色を眺
めながらも、煙草を持った手の方で、こちらに手を振った。

 それが二年の英語教師、来嶋湊だと思い出したのは、だいぶ後のことである。




「おい、聞いているのか。浅羽。浅羽洋樹」

「聞いていますよ。ぶっちゃけた話、こんな馬鹿らしい進路よりも、もっと良い学校を目指せ。毎
年トップである浅羽洋樹君とあろうものが、劇団夕凪のオーディションを受けようだなんて!あ
あ、それじゃあ、担任である俺の指導力が問われかねない。翌年には教頭、そしてゆくゆくは
校長として、学校の権力を手中に治める俺様の野望が……」

「───あのな」                                                              

 既に初老にさしかかった担任は、わざとらしく言ってやった、俺の言葉に眉をもんだ。

 進路室において。

 向かいの席に座る教師とは、入学以来のつき合いだ。学年トップで、しかも生徒会長の経験
もあって、生徒の模範と賞賛されているがために、担任であるこの人が、俺に期待するのも分
かるには、分かるけど。

  それに親からも、息子を説得するよう頼まれているみたいだし。

「とにかく、俺は進路先を変えるつもりはないですから。先生、あなたの指導力が至らないわけ
じゃないですよ。俺の決心が石よりも固いってだけで。親が説得しても無駄なくらいですから、
あなたが説得できないのは、ごく当然のことです。どうか、ご自分を責めぬように」

「おい!?、こら浅羽!まだ話は終わっていないぞ」

「俺の中では終わりました。先生、さようなら。また明日もご指導お願いします」

 言うだけ言って、俺は止める担任の声を無視して、進路室を後にした。

 廊下の窓から見える茜色の空を見て、時計へ目をやった。既に六時半を過ぎている。

 かなり長い間、説教を聞いていたせいで、さすがに肩が凝った。ぐるぐる首や腕を回しながら
歩いていたが、不意に俺は立ち止まる。

 教室へ入る引き戸が開かれたままになっていた。そこから見えた人影の存在が、目についた
のだ。 

 煙草の煙が一筋ゆらゆらと天井へ上っていた。

 西日の逆光で、影絵のようだ。もちろん顔の判別などつかないが、それでも、そこにいる人間
が、昼休みに出会った来嶋湊であることは、すぐに分かった。

 来嶋は教室の机に腰をかけ窓辺に肘を置いていた。

 少し怖々と近づいてみると、別段驚く様子もなくこっちを一瞥してから、窓から見える景色の
方へと目をやった。

 俺は、来嶋に向かって手を差し出す。

「何の真似だ?」

「さっきの煙草、返して貰おうと思って」

「あれは借りていない。貰ったんだ」

 窓へ目をやったまま、来嶋は言った。

「じゃあ、煙草ください」

「未成年が何をほざく」

 来嶋はこちらを振り返り、煙草の煙をこちらに吹きかけた。

「その未成年から煙草強請ったくせに」

「ああ、強請ったさ。俺は立派な成人だからな。人から煙草を貰っても犯罪にはならない」

  ふふんと、勝ち誇ったような口調で来嶋は言う。勝ち誇る程のもんでもないんだけど。

「他人から煙草を貰うのは、成人であれば確かに犯罪じゃないです、しかし未成年から煙草を
せしめるのは如何なものかと」

「うるさい野郎だな。そういや進路室でも、えらく教師に刃向かっていたな。いい根性してやが
る」

「なんだ、聞いていたのか」

「お前舞台台詞みたいにしゃべっていたな。声もよく通るから、ここまで丸聞こえだった」

 来嶋は窓のサッシを灰皿代わりに、煙草をねじった。

「じゃあ、俺の進路先も?」

「聞こえたよ。役者になるのか」

 その時来嶋は初めて俺の顔を見たようだった。いや、顔と言うよりは、目を見ているみたいだ
った。

 なんたることか。 

 この来嶋という人物は、実はかなり端整な顔立ちをしている。奥二重の目はきりりとしている
し、鼻筋は高く整っている。輪郭のラインも歪みが一つも見あたらない。伏せ目がちになると長
いまつげが影を落とし、容貌をさらに引き立てた。

 そういえば、同じクラスの女子が、来嶋先生は格好いいと言っていたような気がする。

「あ……ああ。役者になりたいと思っている」

 男に見惚れてしまったのを不覚に思いながら、俺はワンテンポ遅れて頷いた。

「どんな役者になるつもりだ?」 

「どんな……って」

「いるだろ、憧れている役者とか。憧れるまでいかなくても、こういう役者になりたいっていうの
があるだろ……永原映とか、織辺拓彦とか」

 驚いた……この教師は、舞台に詳しいのだろうか。今、上げた役者二人は、テレビにはあま
り出ない、舞台を中心に活躍する人物だ。

 特に織辺拓彦という人物の方は、脇役がメインで、主役がどんなに大根役者でも、その役者
を引き立たせるのが得意とする、知る人ぞ知る、そんな人物である。

 どっちも名優ではあるけど、いずれは舞台で主役を張りたい俺としては、前者のような人間に
なりたいと思っていた。

「俺は……永原映みたいな人間になりたいと思っている」

「ふうん、何で?」

「熱血漢な主役から、クールな悪役まで、どんな役柄でも百面相みたいにこなしてしまう。その
気になれば、声だって変えられる。誰もが魅入る演技で、観客を舞台の世界へ引き込んでしま
う。客は……彼をみた瞬間、舞台の世界の住人になるんだ。小さい頃から、ずっとあんな人に
なりたいと思っていた」

「お前も永原のような夢前案内人になりたいのか。しかし難しいぞ、永原のような奴には、なり
たくて、なれるもんじゃない。あんな華を持った人間は、滅多にいやしない」

「分かっている。それでも、少しでも近づきたいんだ」

「……」

 来嶋は、いつしか真剣な眼差しをこちらに向けていた。今までにない険しさすら感じる目つき
に、俺は息をのむ。

 他の教師であれば、ばからしい進路先だと言わんばかりに大きな溜息をついているところな
のに、彼はそうではなかった。

「まぁ……見てくれは悪くない。それも一種の才能だからな。」 

 頭からつま先まで、視線を感じた。 

 容姿の才能には、幸い恵まれているという自覚はある。父親が美人と結婚してくれたお陰で
ね。俺はしっかり母親のみの遺伝子を受け継いだのだ。 自分の容姿で不満なのは、目つき
が少し鋭いことと、肌が白いことだ。余計なところまで、母親に似てしまった。目つきが鋭いと、
役作りに不利な時があるし、お人好しの役は回ってこない可能性ある。まぁ、そこは演技力で
いかにカバーするかだけどさ。肌が白いのは、まぁ仕方がない。

「だけど、問題は中身だな」 

 再び、突き刺さるくらい鋭く、来嶋は俺の目を見つめた。 

 本当に役者としてやる気があるのか、いや、それよりも素質見極める厳しい目つき。

 何だよ、こいつ。

 舞台監督のような目をして───                                              

「見た目は合格だが」

 突然、制服のネクタイを捕まれた。

 俺は来嶋に引き寄せられて、険しい顔をさらに突きつけられた。。

「役者ってのはな。どんな役でもこなすのが役者だ。たとえば、こういう役もだ」

「─── 」                                                                    

 何が起こったのか、一瞬分からなかった。

 状況が把握できるまで、だいぶ時間がかかったような気がする。

 しかし何が起こったのか、分かった瞬間。全身が硬直した。

 呼吸がままならない。息をしようとしても、相手の唇がそれを許してくれない。

「せんせ……離し……」

 懸命に顔を背けながら訴えようとしても、ネクタイを掴んでいない方の左手が、俺の顎をとら
えて、もう一度唇を重ねた。 

 何かの魔力にかかったかのように、抗う力が萎えてゆくような気がする。

 来嶋の身体を突っぱねようとしても、腕の力が入らない。

 身体全身が、麻痺したみたいで。

 まるでその柔らかさと、肌触りを味わうかのように、来嶋は丹念に唇を吸う。

 信じられなかった。

 男同士のキスだ。

 普通なら怖気の方が先立って、来嶋を突き飛ばすか何かしてもいいはずなのに。

 力が入らない……

 頭がぼうっとする。

 どれくらいの時間がたったのか。

 腕の力が入らず、手をだらりと下げた。抵抗しても無駄だ。来嶋が満足するまで、身をゆだね
るしかなかった。

 いや……

 俺は……

 まるで恋人にするかのように、何度も唇を重ねていた来嶋であったが、その行為を不意に止
める。

「……?」

 訝しげに見上げると、彼は挑戦的な微笑を浮かべた。

「俺に惚れた?」

「……な、なにを」

「役者は誰もを引きつけ、時には惚れさせる演技が要される。お前が俺に惚れたのであれば、
俺の演技も満更じゃないってことだろう」

「……!」

 心臓を何かで強打されたような、衝撃だった。

 確かに自分は、これ以上にない胸の高鳴りを覚えている。

 抵抗しようと思えばできたのに、心のどこかで、このままでいたいと思う、欲望に捕らわれた。

 それに……。

 来嶋の顔は、そこらの女の子では太刀打ちできないくらい、綺麗な顔をしている。しかし、決
して女らしい顔ではない。

 それでも、彼の目や輪郭、唇。全てに魅力的で、仕草一つ一つに、何とも言えない色気すら
感じた。

「役者というのは、そういうことなんだ。特に主役を張る奴は、絶対的な華がいる。華は誰もが
目を引く、心を捕らえる存在でなければならない」

「……」

「お前に、その華が咲かせられるかな?」

 その胸の高鳴りが、ある種の恐怖だと気づいたのはその時だった。

 全身が、小刻みに震えている。

 一体、彼は何者だというのだ。

 彼は……どんな舞台でも、稀に見る名優だった。

 実力の差を見せつけられた時、屈辱を越え、恐怖が胸中を占めた。

 来嶋は俺を突き飛ばし、制服のネクタイから、手を離す。

「こんなんで、びびっているようじゃ、役者なんて無理だぞ。プロは、もっと厳しい要求を突きつ
けられる」

「……っ!」

 恐怖で、立つのすらままならなくなっていたのか。

 情けないことに俺はよろめいて、そのまま腰を抜かした。

 来嶋はそんな生徒の姿に、くすくすと笑う。一見穏やかな笑みだが、その実、弱者を嘲笑う強
者の余裕が見え隠れしていた。

 俺は……完全に、この男に飲み込まれていた。

 目を反らしたくても、反らすことができない。

 蛇に睨まれた蛙と同じ状態だ。

 立ち上がろうとしても、立ち上がれなかった。

 俺は……。

「立てないのか?」

「……」

 机から立ち上がり、手をさしのべる来嶋に、俺は唇を噛んだ。少し遅れて、悔しさがふつふつ
と蘇る。

 俺を見下ろす目が、むかついた。

 お前などに、役者は無理だ ───  そう、言われたような気がして。            

 あんたに、何がわかるんだ。

 俺は、生半可な思いで、役者になりたいと思っているわけじゃない。

 家族を捨てる覚悟だってできている。

 小学校の時、勉強ばかりの日々だった中、両親が一度だけ連れて行ってくれた舞台があっ
た。そこで出会ったのが、永原映という役者だ。当時、二十歳くらいだったと思う。 

 彼が演じた厳窟王、鬼気迫るあの眼差しは最初は怖かった。厳窟王こと、モンテクリスト伯
は、無実の罪を着せられ投獄されてしまう。けれども、脱獄に成功し、財を手にした彼は自分を
陥れた者たちに復讐をする……そんな物語だ。

 永原が演じるモンテクリスト伯の復讐の眼差し。それはとてつもなく怖かったけど、何故か引
きつけられた。今でも目に焼き付いて離れない……そう、あの眼差しの中にある力強さに、俺
は心を奪われていた。

 俺もあんな風に……

 あの舞台を見た時から、あの世界へいきたいと思った。人を魅了させる舞台を自分も作り上
げてみたい。

 それまで、やりたくもない勉強をさせられて、医者という決まった将来を押しつけられていた俺
は、その時初めて夢を抱いた。

 あんな風になりたい。

 自分もあの世界を作り上げる人間の、一人になれたら。

 それ以来、俺はたくさんの舞台をみるようになった。あらゆる役者の演技を観察して、真似て
みたりもして。

 中学校の時も、そして高校へ進学後も、演劇部に入部した。

 演じることが、思った以上に楽しくて、楽しくて、熱心に部活動に励んだ。

 けれども、部活に明け暮れる俺を、親は快く思わなかった。確かに中学から、高校にかけて
成績は芳しくないのが現状だった。

 だけど……。

「今日から、お前は部活に来るな」

 顧問と部長であった三年生に、そう言い渡された時、俺は何が起こったか分からなかった。

「お前が演劇部を辞めないと、演劇部は潰されるんだ」

「よ、吉田くん!それを言ったら……」

「先生、こいつははっきり言ってやらないと、納得なんかしません。お前の親が理事やっている
だろ?それをいいことに圧力をかけてきたんだよ。お前に演劇を続けさせたら、ウチの部を潰
すって」

 俺だけなら、まだ良かった。俺が責められるだけなら。

 それを教師や部員まで巻き込んで、俺から演劇を遠ざけた親のやり方は許せなかった。だけ
ど俺が何を言っても、親は俺がこれ以上演劇をやることは許してくれず。

以来、   医者の道へ歩むため、勉強に明け暮れた。高校の途中までは、実際に必死になって
勉強をしていたのだ。トップの成績を保ち、医大を目指そう……親思いだった俺な時期もあっ
たのだ。

 だけど演劇部の仲間や、演劇関係の番組を見るたびに、俺の心はざわついて。

 高校の演劇大会で、俺の演技を見た業界関係者が、俺に声をかけたこともあった。

 ふとした拍子で、舞台口調になっていたり、マクベスを演じている自分がいたり……

 親父の手術風景を見ていても、俺は医者としてじゃなく、役者として親父の仕草を観察してい
る自分がいた。

 日が経つにつれて、俺はどうしようもなく、演技が好きなことに気づかされて。

 これで最後にしようと思い、見に行った永原映の舞台。

 あの時初めて見た、モンテクリスト伯の再演。

 それは、押さえつけていた俺の思いを、爆発させた。

 全ての人を魅了する演技……台詞の一つ、一つが、心臓を激しく揺さぶった。足先、指先ま
で演じきった、その姿。幼い頃の憧憬とは異なり、あんな風に演じたいという気持ちが俺の心を
支配した。

 そして、今は観客席から見る、あの別世界が、俺を呼んでいるような気がして。 

 もっと、舞台の上に立ちたい。あの世界で、もっと色んな演技をしたい。

 その思いが、親を悲しませることになる。その現実が辛くないと言えば嘘になる。

 だけど、親の言うがままに生きていたら、俺が俺じゃなくなる。

 だから……それなのに。

 それなのに ────                                                         

 俺の覚悟は、あんたにそんな目で見られるようなものじゃない!

 何だよ、その馬鹿にしたような笑いは。

 俺は差し伸べられた手をとった。そしてゆっくりと立ち上がる。

 来嶋は訝しげに眉を寄せる。

 俺がなかなか手を離さないからだ。俺は力一杯来嶋の手をにぎってやった。

「お前……」

 来嶋が何か言いかけたその時、俺はその手をこちらに引っ張った。。

 負けたくない、と思った。

 このまんま、引くわけにはいかないと思ったのだ。

 俺は来嶋の頬を両手で掴み、強引に唇を重ねてやった。

 気色悪いもくそもない。これは演技なのだから。

 とにかく無我夢中、という奴だった。男とするのなんか初めてだ。

 思ったほど、嫌な気分じゃない。相手が来嶋だからだろうか。

 いや、それよりも俺自身が、これは演技であることを意識している所為かもしれない。

 だんだん、相手とのキスがうまく馴染まないことの方に苛立ちを感じた。

 何か……女とするよりも難しいな。

 何だってこう……俺が一方的に口を押しつけているような気がして。

 その時、来嶋は俺の前髪をおもむろに掴み、一度自分から引き離しやがった。

「痛っ!、あにすんだよっ!」

「この下手くそ!今まで付き合ってきた女とちゃんとキスしてきたのか!?」

 厳格な我が校のPTA会長が聞いたら、卒倒しそうな教師の問いかけに、俺はむっとする。

「したよ!自慢じゃないが、結構数はこなしてんだぞ?」

「数をこなせばいいってもんじゃないだろ、どうせ強引な上級生か、積極的な下級生の女としか
やってないんだろ」

「え……何で、それを」

「女にリードして貰ってなきゃ、数こなしているわりに、あんな不器用なキスなんて、あり得ない
からな。タコのように口突き出していちゃ、まだまだだぞ」

「そんな顔してたのか、俺」

 思わず口を押さえた。そんなことはしていないつもりだったんだけどな。

 こいつの言っていることが本当なら、俺、相当格好悪いじゃないか。

 そういえば、俺からキスすることって、そんなに無かったかも……。いつも女の子の方からし
てきて。俺もそんなもんかなぁ……なんて思っていた。今まで自覚はなかったけれども。 

「くくっ……まいったな」

溜まりかねたように、来嶋は吹き出した。

 何なんだ、突然笑い出して。

 奴は額に手を当てて、笑いを懸命に抑えながらも、肩を震わせていた。

「お前には負けた、って思ったんだ。大したタマだな。まさかキス仕返してくるなんてな……大抵
の奴は、結構へこむんだけどな」

「十分へこんでますけどね」

 俺は口を尖らせる。だって、一教師に役者としての実力の差を見せつけられたんだ。同じ役
者ならともかく、役者でも何でもない奴に。

 ふと、その時俺は思う。

 こいつは、本当にただの一教師なのだろうか、と。 

 先ほどから、身のこなしと言い、滑舌と言い、素人とは思えないテンポの良さだ。わざとらしい
仕草も、自然に見せてしまう演技力は本物だ。

 彼は一体……。

「さっきの言葉、取り消すよ。お前なら、必ず舞台に立てる。役者になるのであれば、迷わずに
進めばいいさ」

「せ……先生?」

 先ほどまでは、お前には無理だと言わんばかりの態度だったのに。

 うって変わったように、穏やかな眼差しがそこにはあった。

「おまえが、そこまで覚悟しているんだ……俺はどうやら、よけいなことを言ったらしいな」

「……」

 この人は。

 俺の気持ちを察してくれたのだろうか。

 俯く横顔が、どこかすまなそうで。

 来嶋はそれきり黙り込んだ。

 ほんのちょっと前まで、俺はこの人に文句言いたいことがいくらでもあったのに。

 それが一挙に、削除されてしまった。

 来嶋の目が、そうさせたのかもしれない。

 次第に、次第に険しくなる眼差し。それは、俺に対してではなく、自分自身に向けられたもの
のように思えた。

 まるで、何かを覚悟したかのような……。

 何となくだった。

 何となく、俺は来嶋とはもう会えないような予感に捕らわれた。

 そんなわけがないのに。

 教師なのだから、明日もあうことになる。

 そうに決まっている、はずだった。

 



「聞いたわよ!洋樹、担任の先生から」

 自宅へ帰った早々、聞き飽きたヒステリックな声が飛んできた。

 彼女は玄関で靴を脱ぐ俺の元へ歩み寄る。

「あなた、また、あんな下らない進路に拘っているの!?いいかげんに目を覚ましたらどうな
の。あなたみたいな不器用な人間が、役者なんかになれるわけないでしょう」

「不器用?俺の何が不器用なんです?手先が不器用だというのであれば、父さんのような外
科医は無理ですね」

「そ、そういうのじゃないわよ!」

 父親のようになれない……という言葉に、母親は口元を引きつらせた

「何に対して不器用だというのです?社交ですか?それなら心配ないでしょう?俺は、心臓病
の大家である大崎先生や、T大学付属病院院長の岩井先生にも気に入られています。二人と
も、俺がいい役者になるよう、頑張るように仰っておりましたよ」

「そうじゃないわ!あなた、従兄弟の啓ちゃんは、ちゃんとみんなの期待に答えて、東京の医学
部に入学したのに。院長の息子であるあなたは、何!?役者、役者、役者なんて、下らないこ
とばかりに熱中して!」

「下らないは、ないでしょう?あなたが好きな観劇だって、役者がいないと出来ないことじゃあり
ませんか」

「あれは娯楽です。そんな娯楽の世界に身を浸す人間なんて、知れたものなのよ」

 ……そういう母は、黒沢昌美という役者に夢中であるのだが、そういうことは棚に上げる人で
あった。

「啓ちゃんは、今度アメリカへ留学……順風満帆だっていうのに」

「啓ちゃん……ですか。あなたは人と比較するのが、昔から好きでしたよね。それで、俺がやる
気がでると思っているんですか?確かにそういう人間もいるのかもしれませんが、俺はいつも
追いつめられていましたよ。俺はね、啓ちゃんには勝てないことを知っていましたから」

「洋樹!」

 母親の声が、今までになく甲高くなる。

 新劇の女優でも、そんな声が出るかどうか。

「同じ年頃の子供を持つ親としては、当然の心理でしょうけど……俺は、ダービーの馬じゃない
んです。あなたと叔母さんが創り上げた、医者という職業がゴールインの競馬場で走りたくはな
いんです」

 俺の言葉に、母親は苦々しく、顔をゆがめた。

 そういった顔をしても、綺麗な顔が崩れないのは流石である。生まれつき、並々ならぬ美人
顔、しかも若いときの華を枯らさぬよう、エステも毎週欠かさない。

 自尊心が高く、それに虚栄心も高い。

 父の妹である叔母とは同い年。負けたくはないという気持ちがあるのだろう。

 俺からすれば、容姿も財産も勝っているんだから、そう剥きになることもないんじゃないかと思
うけど。

 ただ、俺が病院を継がなかったら、その従兄弟殿が病院を引き継ぐことになるのだろう。

 父親ははっきりいって、それでもいいかと思っているようだ。妹の子供だから、自分の血族で
もあるわけだし。けれども、母親にとって、啓ちゃんは血族じゃない。

 病院の権利が全て、義妹の息子へ移る。 

 それが、多分一番、彼女にとっては我慢ならないのだ。

 しかし、それは母親のエゴというもの。俺は、彼女のプライドを守るために、生まれてきた訳じ
ゃないのだから。

「お前のような子は……」

 靴を脱いで、家に上がろうとしたその時。

 母親は、俺を両手で突き飛ばした。不意打ちだ。

 バランスを崩し、玄関の床上に腰を打つ形になった俺は、驚いて母親を見上げる。

 彼女は、赤い唇を噛みしめて、般若のような顔をしていた。綺麗な顔だけに恐ろしく、怨念を
感じた。

「お前のような子は!この家を跨ぐことは許しません!母親である私を否定しようとしているの
だから」


 

 母親を否定しているつもりはなかったのだけど。

 しかし、俺は今まで胸の中にしまっておいた言葉を、今回はき出していた。

 それは、確かに母親が今までしてきたことを、否定していることになるのだろう。

 俺はね、感謝しています。

 まず、生んでくれたことに。

 そして、育ててくれたことに。

 本当に感謝しています。

 だけど、だからといって、あなたの思い通りの子供にはなれません。

 俺は家を後にした。今日は寮の友達の部屋に泊めてもらうしかないな。

 こんなことは、初めてじゃない。

 それどころか、ここのところ、友人宅を泊まり歩くことが頻繁になってきたかもしれない。

 俺は携帯をとりだし、友人の番号をプッシュした。

「山田?俺だよ……悪いけど、今日泊めてくれる?」

『別にいいぜ。俺たち徹マンやってるし。その辺に勝手に寝てくれればいいよ。でも、どうしたん
だよ、突然』

「んー、女に締め出されたって奴かな」

 俺はちょっとむなしい冗談を言って、一人苦笑した。

 



 来嶋は、それから学校へ来なくなった。

 教師の無断欠席である。

 当然、職員の間では大問題となり、生徒にそのことはは伏せられていた。 しかしどこからと
もなく、噂となってその情報は生徒の間にも広がっていた。

 当然、俺の耳にも来嶋無断欠席説の噂が届いていた。

 既に、かの教師の別の一面を見ていた俺にとって、さして意外なことでもないと思っていた。

 それよりも興味があったのは、様々な生徒達が抱く来嶋の印象であった。

『来嶋?ああ……ウチの顧問だったけどな。うん、半年間の間だけ。本来、陸上部顧問やって
いるはずの、山口が急病になっちゃったからね。その山口に指導の仕方とか教わったんだろう
な。もう一人あいつがいるかってくらい厳しいわ、容赦ないわで』

『大人しい先生だった。授業中もよけいなこと言わないし。本当に淡々と教えているだけみたい
な』 

『ウチのクラスでは冗談みたいなこと言ってたよ。結構人気あったと思うけど』

『以外としたたかだね。教頭に文句言われても、どこ吹く風みたいで』

『優しい先生だよ。居眠りしてた時も、怒らなかったし』

『何か印象薄い人だから、よく分からないな』

『真面目で勤勉。PTAにはウケが良かったみたいだよ』

『結構間抜けな所があったな。トイレのスリッパ履いたまま教室はいるし。へらへら笑っている
けど、授業でのポイントはしっかり教えてくれるのが、そこらの馬鹿真面目な教師と違うところ
だった』

 あの教師は、どれほどの顔を持っているのだろう?

 この学校を舞台に何人の人間を演じてきたのか。

 俺は、自分の前にいた来嶋こそが、本来の来嶋だとは思っているけど……でも、実際に本当
の来嶋はどこにいるのか。

 あの放課後、真剣な眼差しで、役者になるのかと問いただしたあの声も演技だったのだろう
か。それに何かを覚悟していたかのような、あの眼差しも。

 俺は今日買ったばかりの、演劇の雑誌を教室の机の上に広げた。

 先週からニュースでも言っていた内容のことが、トップに出ている。

 織辺拓彦の死。

 夫婦でアメリカへ旅行中のことだ。飛行機の事故で彼とその妻は帰らぬ人となったのであ
る。

 脇役を主とした、名優だった。

 雑誌によると、若いときには何度か主人公も演じていたらしい。雑誌のモノクロの写真、中性
的な美青年がハムレットを熱演している姿がある。主人公でも、十分な輝きを持つ人物であり
ながら、織辺拓彦は脇役に徹した。

 主人公の友人や、殺人事件の犯人役、それに教師役や、遊び人の男……あらゆる役を、完
璧にこなすその実力が、写真でも見て取れる。

 すべてが同一人物とは思えない程、別人のように思えた。この人物と、主役を演じることが多
い永原映という人物は、ゴールデンコンビだった。

 主人公として、最高級の華を持つ永原。脇役として、華を最高に美しく見せる芸術家だった織
辺。

 二人は出会ったときから息があった演技をしていたのだという。織辺は永原の華を最高に生
かせる人物だったし、永原は織辺の芸術を傑作に高める特選素材であった。

 個人的にも、良き友人同士であった二人。

 永原は織辺の悲報を聞いたとき、号泣したそうである。

 これから行われるはずだった、二人の舞台。その稽古始まる前の出来事である。

 当然、舞台は中止になるであろうと思われていたが、雑誌によると永原は、織辺の代役を見
いだしたことが描かれている。

 役者の名前は、相模ひろし。

 聞いたこともない名前だ。

 大学時代まで、織辺の弟子として、織辺の実力に最も近いと言われてきたらしい。

 だけど、本格的に役者としてデビューする前に、舞台を一度去っている。実に四年のブランク
があり、主催者も不安が隠せないそうである。

 来嶋は、この記事を見たら、どう思うだろうか。

 もう少し、彼と話ができたらな、と思った。

 あの時は、実力の差を見せつけられて悔しいとは思ったけれども、来嶋の言っていることは
的を射ているし、演技の実力も確かなものだった。それに反対する大人達の中、唯一応援の
言葉をかけてくれた人物だったから。

 今度は、役者の世界について彼と、色々語り合いたいと思った。

 来嶋は、今、何をしているのだろう?

  



「……君がそこまで言うのなら、仕方がない。今更、止めたところで、止まる者でもないし」

 あきらめきった担任の声。

「そうですよ、俺みたいに役者やりたい人間なんて、そんなにはいません。来年には、また優秀
な子が入ってきますし。今回は、先生。あきらめてくださいね」

 担任は長い、長い溜息をついた。

「お前はなぁ……ご両親が嘆いているのに、そのさっぱりとした言いぐさはないだろう?」

「ご両親には悪いなとは思っていますよ。もちろん。俺は親の言うとおりに、勉強をして、進学校
にも入学して、優秀な成績を取り続けましたから。これといった反抗期もなかったし……だけ
ど、これだけは譲れませんよ」

 進路指導をはじめてから一年、両親に拝み倒されたこともあって、この人は俺に大学へ行く
よう、説得し続けた。だけど、俺は親がなんと言おうと、教師がなんと言おうと、気持ちは揺らが
なかった。

 きっと、子供の時、永原映の舞台を見た時から、俺は自分の運命を定めていたのだと思う。

 『奇跡の舞台』

 そう呼ばれる永原の舞台を見た瞬間から。

 最高の役者がそろい、最高の演出家、舞台監督、スタッフ。

 あの舞台に本物の世界を創り上げた人たちを見た瞬間から、魅了されていた。

 そして、俺は決めていたんだ。

 役者として生きていこう、って。

 三〇分ほど話して、進路室から解放された。

 屋上で煙草を一本吸ってから、帰ろうかな。家に帰ったら、担任の報告を聞いた両親が俺に
勘当を言い渡すかもしれない。元々、家出がちではあったけど、多分決定打をうたれることに
なる。

 それも……仕方がないことだよな。

 いずれは医者の息子として、病院を継ぐために育てられてきた。俺は、その両親の期待を裏
切るわけだし。

 病院は……俺よりも優秀な従兄弟が何人も医師として活躍してんだ。後継者に困ることだっ
てないんだし。

 屋上へ出る扉を開くと、まだ高い夏の日差しが目に飛び込んできた。

 空は何処までも高い。

 気が遠くなるほど……。

     途方に暮れるほど……。

 役者として生きていくと決めた、自分の未来予想図は、空を見つめる気分にもにていた。 俺
は屋上の日陰に座り、新しく補充したセブンスターの箱を取り出す。

 煙草をくわえ、マッチの火を擦る。ライターでもいいのだけど、映画だったか、舞台だったか。
俳優がマッチで煙草の火をつけている姿が、とても格好良かったので、俺も真似をしてみたの
だ。

 その時だった。

「俺も、一本くれないか?」

「……」

 見上げると……ああ、やっぱり。今まで、会いたいと思っていた人物が、穏やかに笑って手を
差し出していた。

 何だろう?

 前にあったときよりも、痩せていて、酷く疲れているみたいだった。

 俺はマッチとセブンスターの箱をセットで、来嶋に渡しながら尋ねた。

「今まで、何をしていたんだ?」

「……」

 来嶋はその問いかけに答えず、煙草を口にくわえ、マッチに火をつけた。

 彼が煙草をつける姿は、俺が昔見た俳優と同じくらい、格好いいと思う。

 それと同時に思うのだ。

 こいつ……居る場所を間違えているんじゃないか?

 だって、俺は子供の時から、役者になりたかったから、ありとあらゆる舞台も見てきたし、そ
れにビデオや映画も見てきたけど、その役者の中でも、この来嶋という人物が、かなり優れた
役者であることくらいは分かる。

 恐らく、何度か舞台を踏んでいるはずなのだ。

 そんな才能がありながら、どうしてこんな所にいるのか。

 来嶋は煙草の煙を吐いてから、ぽつりと言った。

「お前のこと、うらやましいと思っていた」

「俺が?」

「ああ、お前も察していると思うけど、俺は役者をやっていたよ。小さい頃からクラブ活動の代
わりに劇団で芝居やっていて。中学になったら、役者の弟子になった。もっといい演技をしたい
と思うようになって……だけど、役者で食べていこうとは思わなかった。父親が病床でね、早く
安定した収入が必要だったから、この道を選んだんだ」

 そこで、来嶋は一度煙草を吸った。

 まだ高い日差しの中、その時少しだけ涼しい風が吹く。

「だけど、忘れられなかった……ずっと帰りたいと思っていた。でも、そういうわけにはいかなか
った。そこに、俺の師であった役者が事故で死んだ知らせがきた。あの人は、俺に、いつでも
戻ってくればいいと言ってくれた人だった」

「事故で死んだ役者って、まさか……」

「ああ、織辺拓彦のことだ。教える時は、とても厳しい人だったけれど、本当に優しい人だった。
もう一人の父親だと、思っていた」

 織辺拓彦には、一人だけ弟子がいると聞いていた。

 彼に一番近いところにいるとまで言われてきた、弟子が。

「あんた、まさか相模ひろし……?」

「あの記事読んだのか。ま、役者目指しているんなら当然か。神奈川県出身だから、そういう名
字になった。ひろしは最初、織辺拓彦の拓をもらって、ひろしと読ませようと思ったけれど……
まぁ、それもおこがましい気がしてね。俺は、途中でこの道を投げ出した人間だし」

「じゃあ、今、織辺拓彦の代役を?」

 来嶋は頷いた。煙草に口をつけようとしたが、それをやめて彼は口を開く。

「やっぱり四年間のブランクは、なかなか埋まらないな。いつも永原さんの足を俺が引っ張って
いる……舞台監督にも何度蹴られたことか」

 俺は、信じられなかった。

 来嶋が舞台監督に蹴られている姿が。

 誰かの足を引っ張るだなんて……彼はそこらの役者などよりも、群を抜いて秀でているという
のに。

「永原の舞台は、常に最高じゃなければならない。そして完璧じゃないといけない。失敗など許
されない、心の乱れもあってはならない。役者の人間になりきるんだ……俺という人格は完全
に消去されなければならない」

 そうだ、永原と織辺の舞台は、常に最高のスタッフが勢揃いする。厳しいと有名だが、巨匠と
謳われる舞台監督に、鬼才と呼ばれる脚本家や演出家。登場する役者も皆一流だ。

セットや照明も、監督拘りの人間を起用している。

 役者にとって、この二人の舞台に出られることは、かなりのステイタスでもあるのだ。

 俺も生きている間に、一度は出たい夢の舞台だ。

「何がいけないのか、俺には分かっていた。俺は、まだ役者じゃなかった。教師を辞めていない
……それが演技にも出ていた。教師を辞めることはできない……だけど、役者もやりたい…
…」

 ああ、と俺は思った。この人は役者だったのだ。

 この学校においても、教師を演じているに過ぎなかったのだ。

 この人は教師を演じるのも上手かった。あらゆるタイプの教師を演じていて。

 だけど、ここは舞台じゃない。ここは学校だ。教師としての責任、柵がついてまわってくる。そ
れに捕らわれていた来嶋は、完全な役者じゃなかった。俺は、この人が担任じゃなかったし、
英語を教わってもいなかったから良くは分からないけど、教師としても多分……この人は完全
じゃなかったのだと思う。

 今の来嶋は痩せていて、疲れていて、こっちが見ていても痛々しいけれども、表情は何だか
穏やかだ。まるで何か吹っ切れたみたいに。 

「あんたはどっちにしたんだ?教師か、役者か」

 どちらの道を選択したのか分からないが、来嶋は今の半端な状態に、ピリオドを打ったのだ
ろう。

「この舞台は織辺さんが楽しみにしていた舞台だ。絶対に、完成させないといけないと思った」

「それじゃあ」

 言いかける俺に、来嶋はうなずいた。

「ああ、教師をさっき辞めたところだ。俺は、この舞台を成功させ、役者としての地位を、確立さ
せることにした。母親や兄弟には、苦労を掛けることになるかもしれない。だけど、もう一人の
父親の死を、俺は無駄にしたくない。あの人の演技を受け継いだのは、俺だけなのだから」

 来嶋は煙草をもう一度吸った。煙草に縋るような吸い方だ。尋常じゃない重圧が、その精神
にかかっているのだろう。

 舞台は容赦なく、来嶋の中に織辺を求めているのだ。

 ひとしきり煙草を吸ってから、彼は俺の方を見た。

「俺は、お前がうらやましかった。役者になりたいと思う、その気持ちの強さが」

「そんな……」

「俺にもその強さがあったら、教師なんて回り道なんかしないで、今頃、織辺さんと同じ舞台に
立てたかもしれない……お前に嫉妬していたんだろうな。あの時少し、苛めてやりたくなったん
だ」

「それで、あんなこと」

 思わず俺は自分の口に手を当てた。 しかしあの時のキスは……思い返しても、悪い気分じ
ゃなかったんだけど。

 しかし、 そんなことは、恥ずかしくて言えなかった。

 それに、あの時来嶋の言っていたことは正しいことだと思うのだ。

 来嶋はにこやかに笑った。

「お前はいい役者になると思うよ。根性があるからな、それに見事な優等生ぶりだったし」

「先生に比べたらまだまだだよ」

「当然だ。四年間ブランクがあっても、役者歴はお前よりもずっと長いからな。でも、すぐに追い
つけるさ。役者の付き人をやってみたらどうだ?それも勉強になると思うが」

「付き人って言っても……どうやってなればいいんだか」

「永原さんの付き人が、最近やめちまったんだ。才能はあるんだが、根性に欠けていてね」

「は……っ!?」

 一瞬、耳を疑った。

 永原とは、永原映のこと……なのだろうか。

 小さいころから、ずっと憧れてきた役者だ。

 幼い頃から、天才の名を欲しいままにしてきた人。まさに、役者になるために生まれてきた
人。

 現在、三〇前半になるのか。だけど同い年の役者を見ても、彼の貫禄に勝る者はない。

「……それって、つまり」

 目を白黒させながらも、俺は恐る恐る尋ねてみる。

 来嶋はクスリと笑った。

「お前のこと、永原さんに話したら、一度会いたいそうだ。役者になるつもりだったら、一緒に来
ないか。今日学校にきたのは、お前を迎えにくるついでに、学校を辞める手続きをしにきたん
だ」

「学校辞める方が、ついでなわけ?」

「俺はもう教師じゃないからな。ほら、立てよ。すぐ、永原さんの所へ行こう」

 来嶋は俺に手を差し伸べた。俺は震える手で、その手を取る。

 腕には鳥肌が立っていた。

 立ち上がる足も、がくがくとしていた。今の話が信じられなくて。

「俺のこと……気に入るかな」

 学校の部活動でしか演技していないし。

 急なことだし、心の準備ができていない。

「大丈夫だ。俺が気に入ったんだ。あの人も気に入るよ。会ったら、すぐ仕事に取りかかること
になるだろう」

「へ……で、でも学校あるのに」

「そんなの、暇な時に行け。まぁ、舞台に卒業証明書なんていらんからな。いっそのことやめて
もいいと思うが」

 ……この人って、本当に教師に向いていなかったんだな、と俺は思った。

 しかし、今すぐというのは。

 先だって歩き出した来嶋だが、立ちつくす俺にふりかえった。

「何だ、何が不安なんだ?」

「俺、金がないんですけど……帰ったら親にも勘当されるだろうし」

「丁度いいじゃないか。じゃあ、今日から俺ん家で暮らせ。せまいアパートだけど、二人くらい寝
られる。金はちゃんと給料くれるから、心配するな」

 そう言って、歩き出す来嶋に、俺は慌てて着いてゆく。

 夏の日差しが、少し傾き始めていた。

 この先、どうなるか分からない。だけど、この人に着いていくべきなのだと思う。

 だけど、不思議だと思うこともあって……。

 俺は来嶋の背中を見つめながら、尋ねた。

「どうして、俺にそうまでしてくれるんだ?あんた」

 来嶋と出会ったのは、二度だけだ。しかも、一日しか、まともに接していないのに。

 それだけで、見込みがあると判断できるのか。

 それに判断できたとしても、永原映にまで、紹介する義理はないと思うのだが。

「なぁ、聞いてんの?」

「……」

 俺は、次の瞬間、来嶋の背中にぶつかることになる。

 急に立ち止まるなよ!

 文句言おうと口を開きかけたけど、その前に来嶋の方が先に口を開いていた。

「役者は、誰もが惹かれる存在じゃなければならない。誰もが惚れるような人間でなければなら
ない」

「ああ……」

 俺は頷いた。前にも言ってくれたことだ。

「お前が俺にキスをした時……不器用だったけどな。直向きだった。恋人にするかのような見
事な演技だった」

「え……」

 来嶋は、もう一度俺の方を振り返り、片目を閉じた。

「俺は、お前に惚れたんだよ」



 夏の日だった。

 十八歳の夏の日。

 気が遠くなるような夏の空が、少し、近くなったような気がした。 


END                  








 

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