春来9


 翌朝


 目を覚ますと、温かな日差しがカーテンの隙間から差し込んでいた。

 う……今何時だろう。

 今日は夕方から明日の公演の打ち合わせと、軽いリハがあるんだよな。

 ベッドの傍らの時計は十一時を差していた。

 そこにインターホンのベルが鳴って、俺は首を傾げる。

 珍しいな、お客さんが来るなんて。

 あ……お茶出さないと。

 でも、ちょっと着替えた方がいいかな。

 シャツがぐしゃぐしゃだ。

 俺は急いで収納ケースから長袖のTシャツを取り出す。

 ちなみにこの部屋は和室で、隣も和室。

 隣は、来嶋の寝室になっている。

 和室が二部屋あるから広いと言われがちだが、元々一室だった部屋を障子でしきっているだけな
のだ。

 玄関の方から、来島の声が聞こえた。

『どうぞ、狭いところですが』

 来嶋は来客を中に勧める。

『洋樹はいるの?』

 その声に、俺はシャツに頭を通しかけていた動きを止める。

 この声、もしかして啓ちゃん?

『いや、初回公演の疲れもあって、まだ寝ていますよ』

『ふうん、そうなんだ。じゃあ、しゃべり声で起こすのも可哀想だし、そうだ。ちょっと屋上の方で話そう
か?』

『いいですよ』

 このアパートは、住人が自由に出入り出来る屋上があって、住人はそこで洗濯物を干したり、プラン
ターで植物を育てたり、思い思いに活用している。

 飛び降り自殺防止に、高いフェンスがついているんだけどね。

 来嶋と啓ちゃんは、アパートを出て行った。

 なんだろう?

 どうして啓ちゃんがここに?

 来嶋と何を話そうというのだろう?

 俺は上にジャケットを羽織って、後を着いていくことにした。

 思い出すのは来島に対する啓ちゃんの視線だ。

 あんな目で人を見るなんて……。

 でも何で来島のことを?

 俺は屋上に続くドアの横にある窓から様子を見てみる。

「……」

「……」

 来嶋達は何かを会話しているのだろうけど、窓ガラス越しではよく聞こえない。

 幸い近くの学校の予鈴が鳴ったのでその音に紛れ、みつからないように窓をそっと開ける。予鈴が
鳴り終わるまで結局会話は聞こえなかったけど。

 でも予鈴が終わると、窓越しに会話を聞くよりも、よりはっきり来嶋達の会話が聞こえた。

「で、あんたは洋樹のことをどう思っているんだ?」

「どうって?」

「生憎俺は回りくどい会話は嫌いでね。すっとぼけた質問はナシだ」

……な。

……何だよ、この厳しい口調はあの啓ちゃんなのか?

 来嶋が俺のことをどう思っているか?

 そんなの啓ちゃんにとっちゃどうでもいいことだろ?

 何でそんなことを尋ねるんだ?

「俺はあいつが幼いときからずっと見てきた。弟のように可愛いと思っていたし。実の弟って奴が一応
いるけど、そいつよりも可愛いと思っていたよ」

「……」

「そんなあいつが、元教師のあんたと暮らしていると聞いた時は正直ショックだったよ」

 そうだ。

 啓ちゃんは俺の兄さんみたいだった。

 勉強も教えてくれたし、何かあった時にはよく気遣ってくれて。

「悪いけど、これ以上洋樹をあんたの所に置いておくわけにはいかない。伯母さん……いやお義母さ
んも、もうアイツのことは許しているんだ。家に戻ったって問題はない」

────

 俺は息を飲んだ。

 家に戻っても良い?

 父さんも母さんも許してくれている?

 啓ちゃんの言葉は凄く嬉しい。

 特に父さんと母さんが許してくれているという部分は。

 だけど、俺は。

「両親の元に戻るか……確かにそれが一番いいんだろうな」

 来嶋の言葉に、俺は胸が潰れそうになる。

 何だよ、何教師みたいなこと言ってんだ、今更。

 あんたが俺の親に申し訳ないと思っている気持ちは分かるけど。

 そりゃ俺が家に戻った方がいいんだろうけど。

 だけど。


「ただ、あんたがあの家で洋樹の両親と暮らしているとなると話は別だ」

 

 ……え?


 今、何て?

 俺は自分の耳を疑った。

 啓ちゃんがいると話は別?

 一体、何のことを言っているんだ??

 すると啓ちゃんの笑い声が聞こえた。

 くつくつ喉を鳴らしたその笑声は何だか冷ややかな響きを孕んでいる。

「何を言い出すかと思えば……」

「そちらこそ、惚けないでもらいたい。あんたが洋樹に対して、弟以上の感情を持っていることは分か
っている」

 な……

 う、嘘だろ。

 啓ちゃんが、俺のこと。

 だって啓ちゃんは、凄く優しくて。

 啓ちゃん以外にも従兄弟がいたけど、その中でも一番優しくて。

 そんな……俺にそんな感情を抱いているなんて。

「ああ、そうだよ。正直、腸が煮えくりかえる思いだ。……あんたが洋樹と一緒に暮らしていること自
体がね。今すぐここで殺してやりたいと思っている」

 かつてない冷ややかな啓ちゃんの声。

 ああ……そうだ。

 啓ちゃんは来嶋のことを仇のように見ていた。

 今の声も、本当に殺意が溢れていて。

 一瞬、来嶋が殺されるんじゃないかと思った。

「思うだけにしてください。俺はまだ死ぬわけにはいかないんで」

 落ち着いた口調の来嶋に啓ちゃんも嘲笑混じりに言う。

「俺だって犯罪者になるわけにはいかない」

「婚約者がいるからですか?」

 来嶋の問いかけに、啓ちゃんは答えなかった。

 そうだ。

 啓ちゃんには麗花さんという恋人がいる。

 大財閥の令嬢だという。

「それとも出世の為ですか?」

「……」

 その時の啓ちゃんの顔がどんな顔だったのか分からなかった。

 窓から二人を覗いていたら見つかりそうだから、俺は窓の下に座り込んで二人の会話を頭上で聞
いていたから。

「何にしても、二兎追う者は一兎追えませんよ」

「何、今更教師らしいこと言ってんだか」

「あなたには婚約者がいる。それなのに洋樹に執着している」

「……」

「愛人にするつもりですか?洋樹を」

 来嶋の問いかけに、俺は息を飲んだ。

 アイジン。

 啓ちゃんが俺にそんなこと……?

 ちがうよな?

 それは来嶋の思い過ごしだよな?

 嘘だと言ってくれ、啓ちゃん。

 半分耳を塞ぎたい思いに駆られながらも、俺は自分のシャツをぎゅっと掴んで、辛うじてそれを抑え
た。

「愛人ね。聞こえが悪いな」

 否定しないで笑っている啓ちゃんの声が聞こえた。

「確かに婚約者とは結婚する予定でいる。俺の子供を産んで貰わなきゃならないし、なにより彼女の
父親のバックがこれから重要になるしな」

 俺は頭がくらくらした。

 今喋っているのが、あの優しい従兄弟だなんて信じられなくて。

「あんたも俳優なら見たことあるだろう?白い巨塔。医者の住む世界ってね、出世の為に仲間を裏切
ったりね、恩人を利用したり……本当にあーゆー感じなんだよ。そんな世界に、あいつを関わらせる
のは可哀想だろ?」

「そうですね……あなたのそういう思いには、洋樹も感謝していましたよ」

「そうだろ?俺はね、洋樹が好きだよ。こんな思いを抱いているのはあいつだけだ。愛人であろうが、
何だろうが、いずれ俺のものにするつもりでいたんだ」

────

 息が止まりそうになった。

 啓ちゃんが俺のことを。

 嘘だと思いたかった。

 今まで優しかったのも。

 何かと気遣ってくれたのも。

 俺を弟として見ていたからじゃなかったんだ。

 本当にこれが夢なら良かった。

 だけど腕を抓ったら痛い……夢じゃない。

「それを横からあんた、かっさらうんだからな。本当は一人で家出して路頭に迷っているあいつを俺が
助けてやる予定でいたのに」

 ─────どこまで黒いんだよ、啓ちゃん。

 俺は思った。

 あの従兄弟も大した役者だ。

 色んな顔を演じているんだ。

 優しい笑顔の啓ちゃんも、それに野心的な言葉をちらつかせる啓ちゃん。

 今のダークな啓ちゃんも演技なのかもしれない。

 どれが本当の従兄弟の顔か分からない。

「知り合いの探偵に頼んで、あんたと洋樹の関係も調べたよ。まだそんな関係になっていないって結
果にはほっとしたよ。本当はすぐにでも、あいつを連れ戻したかったけど、下手に今の状況をかき乱し
て、アイツの役者人生を断たせるようなことはしたくなかったしな」

 啓ちゃんは、俺が役者になることは応援はしてくれていたのだろう。

 というよりも、その時、俺が家に戻ったら両親……特に母親は手を尽くして俺を医者にさせようとし
たに違いない。それで、また俺がやっぱり医者になるような事態になったら、困るってのもあったんだ
ろうけど。

「あなたが言えば、洋樹は実家に戻るかもしれませんね」

 そうかもしれない……

 このやりとりさえ聞いていなきゃ俺は、きっと来嶋に迷惑を掛けたくないと思って。

「洋樹が戻りたいって言ったら、あんたはどうするんだ?」

「洋樹の意志を尊重しますよ」

 来嶋………。

 引き留めてくれないんだ?

 そうだよな。

 一応、大人だもんな。あんただって。

 俺が帰りたいと言ったら、止める権利なんかないよな。

 でも……あんたが引き留めてくれたら俺は。

 そんな自分自身の思いに、俺は自嘲したくなる。

 何を言っているんだ?

 俺は。

 引き留めて欲しいなんて、何を子供じみたこと。

 あの人はただ、親の代わりに保護者になって、俺の面倒を見てくれていただけだ。

 同じ役者を目指す仲間として、手助けしてくれただけ。

 何を俺は───

「もう一度聞くけど、あんた、アイツのことどう思っている?」

「弟のような、そんな感じですよ」

「本当に?」

「本当ですよ、あなたがそんなに心配するような仲じゃありませんから」

「……」

 さらっと答える来嶋に、俺は唇を噛んだ。

 どうしよう。

 すっげぇ、泣きたい。

 今まで色んな女の子と付き合って、別れたりもしたけど。

 こんな悲しい気持ちになったのは初めてだ。

 弟のような……だなんて、一番聞きたくなかった言葉だ。

 もう、この場を離れよう。

 来嶋達が戻ってくる前に、部屋に戻って何事もなかったかのような顔をしなきゃ。

 頭の中、ぐちゃぐちゃだけどさ。

 来嶋への苛立ちもあるし。

 啓ちゃんの想いも衝撃だったし。

 ああ、でも落ち着け、俺。

 どんな時でも、これから舞台に立たなきゃならない。


 例え、身が引き裂かれるような悲しみが襲ってきたとしても。

 俺は役者じゃなきゃいけないんだ。


 俺は握りしめていた自分自身のシャツを離した。

 ああ……駄目だ。

 まずはシャツから着替えなきゃ。

 胸元がシワだらけだ。

 部屋に戻った俺は、まず自分の寝室に入り別のシャツに着替えた。

 そして顔を洗う。

 喜怒哀楽の顔を鏡に向かってやってみる。

 ちょっとした自主トレだ。

 それから歯を磨く。

 その時、丁度来嶋が啓ちゃんを連れて戻ってきた。

 歯ブラシをくわえたまま、俺はユニットバスから顔を出す。

「どこへ行っていたんだ?来嶋……」

 そこで、俺は驚いたみたいに目を瞠る。

 そこには意外な人物がいたからだ。

「え……啓ちゃん?」

「よ、目が覚めたか?」

 屈託のない笑顔をこっちに向けて、軽く手を挙げる啓ちゃん。

 俺はあたかも啓ちゃんがいることが信じられないと言わんばかりに、口をぱくぱくさせながら、来嶋と
啓ちゃんを見比べる。

 来嶋は軽く肩をすくめ。

「ちょっと上で話をしていてな」

「上って、屋上か?そんな……中に上がって貰えば良かったのに」

「いや、俺が来嶋さんを誘ったんだ。お前を起こすのも可哀想だからって」

 さっきの会話の主が、この従兄弟だなんて信じられない。

 本当に役者だな。

 黒い啓ちゃんはもうどこにもいない。

 今の笑顔がホンモノだと俺は思いたいけど……いいや、嘘だとしても、全部が嘘だとは思いたくな
い。

「そうなんだ。で、何を話していたんだ?」

「お前のことだよ」

 啓ちゃんが言った。

「俺の?」

「いつまでも余所様に世話になっているわけにいかないだろ?」

「ああ……そっか」

 まいったな、と言わんばかりに俺は頭を掻く。

「お義父さんも、お義母さんも、お前に帰ってきて欲しいそうだ」

「……」

 痛いところ突いてくるな、啓ちゃん。

 俺だってね、会いたいと思っているよ。

 両親には。

 迷惑かけたし、期待に添えなかったし。

 だけど。

「それが本当なら凄く嬉しいけど……でも、どの面下げて帰ればいいんだ?」

 自嘲混じりに問いかける俺の声に、啓ちゃんの笑顔が少し曇る。

「俺は一度家族を捨てた人間だ。そんな奴がなにをのこのこ何事もなかったかのように、家に帰って
来られるんだ?」

「そんなの気にする必要ないじゃないか。今まで通り家で暮らせば」

 努めて笑みを浮かべ治す啓ちゃんに、俺は首を横に振った。

「無理だよ、啓ちゃん」

「洋樹……」

「確かに啓ちゃんの言うとおり、いつまでも此処にいるわけにはいかないけど……でも、もう家には戻
れない」

「洋樹」

「親元じゃ、俺も何かと甘えるだろ?俺さ……そんな自分が嫌なんだ。親を裏切ったくせに、平気な顔
して親の世話になる自分が」

 にっこりと、俺は従兄弟に向かって笑って見せた。

 うん、我ながら立派な自立宣言。

「今は公演中だから何も考えられないんだけど、落ち着いたら引っ越しも考えようかと思うんだ。まぁ、
家賃の関係で、住まいは他県になるだろうけど、千葉か神奈川か、埼玉かどこにしようか考え中」

 それはぼんやりとだけど、本当に考えていたことではある。

 俺はコーヒーの準備をしながら、そんなことをぺらぺらと話す。

 来嶋が、え、そうだったのか!?といわんばかりに驚いた顔を浮かべていた。

「家には帰れない……か」

 少し寂しそうな笑みを浮かべる啓ちゃんに、俺は申し訳なさそうに言った。

「ごめん。啓ちゃんにはずっと気遣ってもらってばっかりだね」

「いや、いいんだよ。でも、洋樹。苦しくなったら、いつでも帰ってくればいいんだからな」

 啓ちゃんは俺の所に歩み寄り、肩に手を置いた。

「ありがとう、啓ちゃん」

 優しい、優しい従兄弟の言葉に、俺は嬉しそうに笑う。

「とりあえず、お義父さんとお義母さんには、洋樹は戻るつもりはないことを伝えておくよ。残念がると
思うけど」

 啓ちゃん自身も、とても残念そうだった。

 その気持ちに嘘は感じられない。

 そうだね。

 今、啓ちゃんはウチの両親と一緒に暮らしている。俺の本当の兄さんになったんだ。

 でも、啓ちゃんは俺のことは弟だとは思っていない。

 財前教授みたいだって、俺あの時啓ちゃんに言っていたけど、まさか愛人役が俺だなんて思いもし
なかったよ。

 俺は泣きたくなる思いを巧みに隠して従兄弟に言った。

「父さんと母さんにはよろしく言っておいて」



 



 啓ちゃんは、俺が淹れたコーヒーを飲んでから、すぐに帰って行った。

 アメリカ留学を控え、準備に追われる合間を縫って来てくれたらしい。

 だけど、俺はそんな従兄弟に対し、素直に嬉しい気持ちにはもうなれなかった。

                                                       

『君は自分自身の魔性に早く気づくべきだよ。自分の知らない所で、とんでもない人間を引き付けて
いるかもしれないからね』


 静麻監督の言葉を思い出す。

 とんでもない人間……例えば兄弟ってあの人は言っていたけど。

 兄のように今まで思っていたその人は、いつから俺のことを?

 来嶋よりも先に啓ちゃんが俺の手を差し伸べていたら、どうなっていたのだろう。

 俺は多分、兄に縋るようにあの人に縋っただろうけど……きっとそれ以上の感情は沸かないだろ
う。

 そうなんだ。

 俺にとって啓ちゃんはやっぱり兄のような人だったんだ。

 啓ちゃんの想いには絶対に答えられない。

 答えられない以上、もう二度と啓ちゃんと会うわけにはいかない。

 

 

 「洋樹……?」



 来嶋が訝しげに声を掛ける。

 いつの間にか啓ちゃんが飲み終わったコーヒーを片付ける手が止まっていた。

 ああ、いけない。

 テーブルの前に座り込んだまま、ぼうっとしていた。

 

「洋樹……お前……」


 来嶋が驚いたように俺の顔を見ている。

 あれ……。

 何でだ?

 頬に温かいものを感じた。

 それが自分の涙である、と気づくのにしばらく時間がかかった。

 一筋だけだった涙は、どんどん俺の目からあふれ出てくる。

「な……何だろうな。俺、何、泣いているんだか」

 笑おうとしても、ダメだった。

 俺は役者なのに。

 役者なのに。

 この人の前でもちゃんと演じなきゃ。

 自分に言い聞かせようとしても、身体が言うことを聞かなかった。


「おまえ……やっぱり聞いていたのか?俺たちの会話」


 来嶋の問いかけに、俺はびくりと身体が震える。

 この人には嘘がつけない。

 何で、この人には。

「屋上の窓が開いていたからな。俺と啓二郎さんが屋上に出た時にはちゃんと閉まっていたのに…
…もしかして……って思ったよ。だけど、お前、何事もなかったかのように、笑っていたから、俺の思
い過ごしかと思っていた」

「そっか……じゃあ、俺の演技もまんざらじゃなかったんだ」

 涙を拭いながら、俺は笑う。

 でもまだ、涙が止まらない。

「もう、無理をするな」

「!」

 不意に抱き寄せられた。

 来嶋はいつの間にか俺の前に跪き、きつく抱擁してきて。

「俺の前では演じなくてもいい」

「……」

 何だよ、そんなことされたら勘違いしそうじゃないか。

 ああ、でも弟だったらそういう風にもするのかな。

 俺、兄弟いないからよく分からないし。

 ああ、でも。

 少しだけ。

 少しの間だけその抱擁に縋りたかったから。

 俺は来嶋の胸に額を埋めた。

「全然知らなかった……啓ちゃんがあんなこと思っていたなんて」

「……」

「ずっと兄さんみたいなひとだって思っていたんだ」

「洋樹……」

「大好きだったんだよ、兄さんとして」

「……」

  もう、仲のいい幼なじみの従兄弟には戻れない。

 啓ちゃんの想いを知った以上俺は……。

 家族を一人失った気分だ。

 きっと、これは天罰なのだろう。

 俺自身が親を捨てた。

 親を捨てて役者になることを選んだ。

 だから、俺がこれまで兄のように思っていた人を失っても仕方がないことなんだ。

 俺は、それだけのことをしてきた人間なのだから。

 啓ちゃんと両親は一緒に暮らしているという。

 俺はもうあの家には二度と戻れない。

「でも……いつまでもあんたの所にもいられないよな」

 俺は抱擁を解くよう、両手で来嶋の胸を押した。

 戸惑いながらも抱擁を解く来嶋に。

「いままでありがとう。今度の公演が終わったら、俺、ここ出るから」

「洋樹……」

 来嶋が僅かに瞠目する。

「迷惑かけてごめん」

 俺は俯いて、小さな声で言った。

 また涙が出そうになる。

 

 俺、本当にこの人のことが好きなんだな。


 今まで当たり前のようにいた空間が、凄く居心地良くて。

 それにこの人と一緒にいるということが、とても幸せで。

 俺、同じ空間で誰かと一緒に暮らすってことがなかったから。

 父さんも母さんも忙しかったから、本当に毎日誰かと顔を合わせるということも少なくて。でもそれが
当たり前だって思っていた。

 同じ部屋の中で、ご飯を食べたり、世間話をしたり、演劇の話に熱くなったり。

 それから稽古もしたり。

 色んなコトがあって、辛いこともあったけど、この場所が俺にとってどれ程支えになっていたか。

 あんたがいなかったら、今の俺はあり得なかった。

「まだ、住むところ全然考えていないんだけど、どこがいいかな?」

 俺はカップソーサを盆の上に置きながら尋ねる。

 この場所に未練がある、なんて情けない思い、この人に見せたら駄目だ。

「……」

 来嶋は答えずに、何故か俯いていた。

 何だよ。

 何、考え込むみたいに黙り込んでいるんだ??

「来嶋?」

 俺が訝しげに声を掛けた時、来嶋は何故か肩を震わせた。 

「くくく……」

「……?」

 予想もしない反応だった。

 来嶋は膝を立てて座り込み、目に手を当てて笑っていた。

 訳が分からない。

 そこは笑う所じゃないだろ?

 俺は今、真剣に話をしているとこなのに。

「……まいったな」

「まいった、って何がだよ」

「自分の思い上がりぶりにだよ」

「?」

 何を言いたいのか分からない。

 来嶋はしばらく笑っていたけれど、ふと目に当てていた手を膝の上に置いた。

 その時、露わになった目を見て、彼が初めて自嘲めいた笑いを浮かべているのが分かった。

「まさか、お前が出て行くなんて言うとは思わなかった」

「……な、何言ってんだ。だって、あんた俺は親元に帰る方がいいって、俺の意見を尊重するって言
ってたじゃないか」

「嘘に決まってるだろ」

「……は!?」

「俺の本心を言ったら、あの従兄弟はお前を強制的にでも連れて帰るに決まっている。なかなか難し
かったぞ、理性的な大人を演じるのは」

「そんなの」

 俺は首を横に振る。

 信じられるか、そんなの。

「もし、お前が此処を出ると言ったら、どうするのか?俺の本心を教えてやろうか?」

「……っ!」

 俺は息を飲む。

 一瞬、来嶋がこっちを睨んだような気がして。

 だけど、その眼差しはすぐに別のものに変わる。

 どこか……悲しそうな、切なそうな。

 来嶋の手が伸びる。

 長い指が俺の腕首を強く掴んだ。

 そのまま磔にされるみたいに、俺は床の上に両手を押さえつけられた。

 押し倒されたのだ。

 真上に来嶋の顔があった。

「どうしても出て行く、というのなら、俺はお前をここに監禁する」

「……っ!」

 なんだよ、それ!?

 監禁だなんて……そんな。

 あんた曲がりなりにも元教師だろ!?

 あまりのことに何も言えなくなる俺の耳元に来嶋はそっと囁く。


「俺はずっと前からお前だけを見ていたんだ」


 ………………今、何て?

 聞き返す前に、来嶋の手が頬に触れて来た。

 なんだ……この熱さ。

 今まで何度も演技でしてきたことだ。

 でもこんなに人の温度を感じたことがあっただろうか。

 それに。

「どうしても出て行くのか?」

「……っ!」

 問いかけと同時に浮かべた来嶋の表情。

 俺は息を飲んだ。

 な、何だよ、その顔は。

 あんたらしくないじゃないか。

 そんな泣きそうな顔。

 また、勘違いするだろ?

「何だよ、俺は弟みたいなもんなんだろ?あんた、本当の弟いるんだし、俺がいなくなったって」

「さっきも言っただろ?嘘だって」

「……あれも嘘?」

「そうだ。俺は、絶対にあの従兄弟にお前を渡すつもりなんか無かったんだ」

 俺の腕首を掴む手に力が入る。

 それに頬を触れていた手は首に回って。

 本当に逃がさないように、押さえつけられて。

「もう一度聞く。どうしても出て行くのか?」

 半脅迫だ。

 こんな状態で、出で行きます、なんて言えるわけがない。

 言った瞬間、首締められそうだ。

 いつも穏やかで、どこか飄々としたこの人からは考えられない行動だ。

 だけど、それ以前に、来嶋の顔が。

 何とも言えないその顔が俺に次の言葉を出させていた。

「馬鹿、出て行けるかよ。そんな顔されたら」

「どんな顔していた?」

「迷子と同じ顔だ」

 俺の言葉に、来嶋はくすっと笑う。

「じゃあ、今のお前と同じ顔だ」

「……」

 何だよ。

 何なんだよ。

 せっかく、平静とした演技ができていると思ったのに。

 あんたがそんな顔するから、俺も釣られたんだよ。

「とにかく此処を出るだなんて言わないでくれ」

「……本心かよ?」

「当たり前だ。俺はな、ずっと前からお前に惚れていたんだ。演技に惚れていたとか、そんなんじゃな
いぞ。お前自身のことが好きなんだ。分かるよな?」

「分かるけど、そこまで言い聞かせなくても」

「鈍いお前だからな。しつこいぐらいはっきり言ってやらないと理解できないだろ?」

 …………何だ、その言い草。

 でも、その通りだから何も言い返せない。

「お、俺だってあんたのことが」

「分かっている」

「……」

 切り返すのが早いよ。

 ちゃんと自分の口で、自分の想いを伝えたいのに。

「ヤキモチを焼くお前、可愛くて堪らなかったな」

 う……ゲネプロの後のことだ。

 やっぱり、見透かされていた。

 そうだよな、あんだけ分かりやすい行動したらな。

「しかもあんな色っぽい声で誘ってきやがって……俺がどれぐらい我慢したと思う?」

「……っ!」

 顔が一瞬にして熱くなる。

 首を掴んでいた来嶋の手が再び頬に触れてきた。

 指先が焼けるように熱い。

「気絶してなかったらとっくに───

「とっくに?」

「人気のない所に連れ込んで、お前を抱いていた所だ」

 真面目な教師面して、何てヤツだ。

 本当に。

「あははは……」

 もう、笑うしかなかった。

 俺ってとことん間抜けだよな。

 ずっと一緒に暮らしていたのに、あんたの想いに一つも気づいていなかった。

 だって、俺自身、ずっと自分の気持ちに気づいていなかったから。

「洋樹……?」

 不思議そうに声を掛ける来嶋。

 俺は笑うのを止め、真上にある目をじっと見詰める。

「手……離してよ」

「ん?」

「こんな、乱暴なやりかたは嫌だ。ちゃんとあんたと向き合いたいんだ」

 俺の言葉に。

 来嶋は表情を和らげ、俺の拘束を解いた。

 身体が軽くなる。

 来嶋はゆっくりと立ち上がってから、上体を起こす俺に手を差し伸べた。

「驚かせてすまない……立てるか?」

 俺はふと、思い出す。

 一番最初。

 俺はこの人に強引にキスをされて、演技の凄さを見せつけられて情けないことに腰をぬかしてしまっ
た。

 このままじゃ負けると思った俺は、手をさしのべてきた来嶋の手を引っ張って自分の方へ引き寄せ
て、キスし返したんだ。

 あれが最初に来嶋に見せた俺の演技だった。

 だけど今は。

 俺は来嶋の手をとって立ち上がる。

 あの時は俺がそのまま来嶋の手を引っ張って、それからキスをしたけど。

 今度は反対だった。

 立ち上がった瞬間、俺は来嶋に抱き寄せられていた。

 演技でもなんでもない。

 俺は来嶋を見つめ、そして来嶋は俺を見つめている。

 今まで感じたことのない、熱い眼差しだ。

 演技でも何でもない、この人の本当の思いがあった。

「……来嶋」

「名前で呼べよ。この前みたいに」

 綺麗な声で囁く来嶋。

 そうなんだ。この人の声、耳に残るくらいに澄んでいるんだ。

 囁かれただけで、変な気分になりそう。

 でもこの前みたいにって……ああ、大見麻弥が近づいてきたときに俺、思わず下の名前で呼んで
いたんだよな。

「……湊」

 あん時は勢いで言ったから、後になって恥ずかしくなったけど。

 今もちょっと恥ずかしいな。

 だけど、これからは俺もこの人のことを名前で呼びたい。

 だって、湊はずっと俺のこと洋樹って呼んでくれていたのだから。

「洋樹」

 湊の熱い吐息が唇に掛かる。

 うわ……演技の時なんかと全然違う。

 湊の唇が俺の唇に触れてきた。

 最初は優しくついばむように。

 だけど、次第に、次第に深い口づけに変わる。

 俺はゆっくりと湊の首に腕を絡ませた。

 この人が好きだ。

 相模ひろしというの役者としてのこの人も好きだけど、でも俺は来嶋湊その人がが好きだったんだ。

 初めて出会った時から、今までずっとこの人は俺の心を掴んで離さない。

 いつかこの人をを超える役者になってやろう、この人を見返してやるという気持ちの裏、永久にこの
人には勝てない自分がいることも、俺には分かっていた。

「洋樹」

 一度湊はキスを止めて、じっと俺の顔をのぞき込む。

 う……格好いい。

 湊、睫が長いんだよな。

 それに目も黒いのかと思ったらよく見たら茶色で。

 胸がドキドキする。昨日の緊張感なんかと種類が全然違う。

 キスぐらい、何回も演技で湊と練習したのに。

 なんか全然違う。

 湊の唇が俺の首筋を伝う。

 吐息が凄く熱い。

「悪い……洋樹」

「……っ!」

 湊が俺を抱きしめる。

 俺はびくりと全身が震えた。

 身体と身体が密着した瞬間、湊自身が固くなっているのが分かって。

「もう限界だ」

 湊の指がシャツの下に潜り込み、胸の先端に触れてきた。

 全身が痺れるような感覚が走り、俺はそのままへたりこみそうになる。

 湊がそんな俺を支えてくれて。

「感じやすいだな……」

「……っ!!」

 くすりと笑い混じりに囁く湊に、俺は全身が瞬間湯沸かし器のごとく熱くなる。

 こ、こんなこと今までなかった。

 演技の時だって似たようなことされたのに。

 恥ずかしい。

 恥ずかしくて、また泣きそうだ。

 だけど、胸に感じた湊の指先。

 あの熱さ。

 もっと………してほしい。

 もっと、湊の温度を感じたい。

 「ベッドへ行こうか?」

 湊の問いかけに俺は目に涙を浮かべながらも頷いた。





つづく 


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