「信長様、せめてもう一度お会いしたく、参上つかまつりました」

 鬼刃は跪き、静かにそう告げた。

 ロウソクの炎と僅かな照明のみが、信長と鬼刃を美しく照らしていた。

 信長は。

 寝床から起きあがると、障子を勢いよく開き空を見上げる。

 そしてゆっくりと目を閉じて、鬼刃に問う。

「行くのじゃな……」





 

 美濃との対立が深まる中、信長は鬼刃と帰蝶たちに逃げるよう勧める。元々美濃側の人間である
彼らを、いずれ間者と見なし、切り捨てなければならなくなるからだ。

 鬼刃は例え死んでも信長と共にありたいと思うも、恋人である帰蝶のことを思うと、その思いを押し
殺すしかなかった。

 鬼刃は帰蝶たちを先に立たせ、自分は信長に別れの挨拶を言うべく、密かに寝所を訪れるシーン。

 稽古場は水を打ったように静まりかえる。

 鬼刃演じる工藤と、信長演じる浅羽の間には、言葉にはならない想いが溢れているのがこちらにも
伝わるようだ。

 今泰介はパイプ椅子に腰掛け、竹刀を杖のように床に着いて、組んだ両手を柄の先に載せてい
た。それこそ侍を思わせる姿である。

 現在初の通し稽古の真っ最中。

 通しとなると、途中の駄目だしもなく本番同様の流れで行う。

 ようやくここまでこぎ着けた、というのが彼の正直な心境だ。

 今回は準主役をやるはずだった小見山が劇団を去った為に、ど新人である浅羽洋樹を思いきって
使うことにした。正直、一からたたき込まなければならないことが山ほどある上、期間も既に半分過ぎ
ている。それだったら既にあらゆる技術を心得ている劇団員にさせた方が無難かもしれないが、いか
んせん浅羽洋樹ほど、迫真の演技ができる人間がいない。 あんまり認めたくはないが、あのど新人
には天賦の才能があるのだ。

 工藤の演技の質を落とさない為にも、なんとしても浅羽に技術をたたき込み、対等に演じられるよう
仕上げなければならない。

 日本舞踊や殺陣、時代劇特有の言葉遣い、所作立ち振る舞い、そして間。

 寝る間も惜しんで教えた甲斐あって、今や舞台の上では他の劇団員以上の技術力を身につけてい
る。

(ホント……あのど新人をここまで育てたんだからな。流石俺様)

 まずは自画自賛する今泰介。

 実際に、浅羽もよくやったとは思う。

 台詞や間、所作や立ち振る舞いは一発で覚えて自分のものにした。

 殺陣や日本舞踊の指導をしていた奴等も、その点では舌を巻いていた。 

 また憎たらしいことに、この小僧ときたら記憶力がいいのだ。

 台詞も動作も一度覚えたら、絶対に忘れやしない。慣れない若手なら緊張のあまりNGを出す長台
詞も全く引っ掛かることがない。

(ったく……んっとにムカツク野郎だな)

 鬼刃を抱きしめる信長演じる浅羽を睨みながら、今は内心毒づく。

 時々、本当は永原Jrなんじゃないだろうかと思うことがある。

 年の割に妙に冷めていて、こっちの恫喝にも堪えているのかそうじゃないのかも、顔が平静として
いる故に、分かりづらい。そういった所が、妙にあの男に似ていて腹が立つのだ。

 何よりもKONの中にいながら永原映の弟子、というのが腹が立つ。

(あー、クソ!絶対コイツを永原からぶんどってやる)

 この前も、「お前はもう俺の弟子だ!」と言った今に対し、あの小僧ときたら何の迷いもなく「いい
え、俺の師匠はあくまで永原さんですから」と、しかも笑って答えたのだ。

 ……今が竹刀を振り回し、浅羽洋樹を追いかけ回したのは言うまでもない。

 彼は工藤と迫真の演技を続ける少年の横顔を見ながら、心に誓うのであった。

 本当の師は、この今泰介である、と言わしめてくれる、と。

 








演劇界のプリンス







「今日はもう一軒付き合ってもらうよん、浅羽くん」

「ちょ……く、工藤さん!!」」

 顔を真っ赤にした工藤潤は、洋樹に抱きつきながら言った。

 無事通し稽古を終えた後、明日は午後からの稽古とあって工藤は、浅羽洋樹と来嶋湊、そして紺野
健一郎を誘って、新宿の飲み屋街を歩いていた。

「おい、工藤。洋樹は未成年だぞ。飲ますのはここまでにしとけ」

 工藤の肩に手を掛ける来嶋だが。

「お堅いなぁ、相模君は。やっぱし元教師だね。僕の敵だ!」

 そんな友人に対し、あかんべをする工藤潤。

「……そうだった、お前、元ヤンキーだったな」

「え!?そうだったのか」

 意外な事実に驚く紺野に、来嶋はカラカラと笑う。

「何だよ、紺野、お前知らなかったのか?コイツ、中学の時、しょっちゅう喧嘩していたんだぞ」

「知らない、知らない!あー……でも、確かに喧嘩は強かったな。KONでスタッフが殴り合いの喧嘩し
ている二人をKOしていたし」

 なんとなく納得する紺野に工藤は洋樹に抱きついたまんま、口を尖らせる。

「やだな、ほんのプチグレだよ。ちょっと軌道を外しただけで……というか、何で相模君が知っている
のさ。僕、今さん以外には話したこと無いんだけど?」

「お前の噂は俺の中学まで聞こえていたからな。ホント、お前があの演劇エリート校受験したって聞
いたから、俺別の高校受験したんだぜ?」

「何、悪びれなく言ってんの!?というか相模君、最初僕のこと避けていたの!?」

 来嶋の胸倉をつかみ、ぎゃーぎゃー騒ぐ工藤を、まぁまぁと押さえる紺野と洋樹であった。

 結局、不満そうな工藤を無視して、一行は新宿駅へ向かうことに。

 三鷹に住居がある紺野と分かれ、同じ方面の工藤と来嶋、洋樹は、山手線へむかう改札口をくぐろ
うとしたが。

「ごめん、来嶋。先に帰ってくれる?俺、KONに台本忘れて来ちゃった」

「明日にすればいいじゃないか。まさか、今頃になってまだ覚えていない台詞でもあんのか」

「そうじゃないけど……一応持っておきたいんだよ。今日、自分で駄目だったトコとかも書き込んであ
るし」

 洋樹の言葉に、工藤がはいっと手を挙げて機嫌良く言った。

「よーし!そういうことなら僕も付き合うよ!実は僕も三日間ためている洗濯物がロッカーにあんだよ
ね」

「それは早く持って帰れ。しょうがないな、じゃあ、俺も行くよ」

「あははは、相模君、一人で帰るの寂しいんでしょ」

「アホか」

 来嶋は工藤の頭を軽く小突いた。





 KONの前にたどり着いた三人は、まだ明かりが点いている部屋を見て、顔を見あわせて首を傾げ
た。

「第二スタジオだ」

 洋樹達がいつも練習している第一スタジオの半分ほどの規模だが、新人育成や寸劇などの稽古場
として使用している部屋だ。

 表の玄関は閉まっている為、裏口のドアから入った三人は、忘れ物よりも先に明かりのついた部屋
へ行くことにした。

 もし部屋を消し忘れていたら、消さなければならないからだ。

 二階の階段を上った三人は、第二スタジオのドアが開いているのに息を飲む。

 そして。

 中心に佇むそこには今泰介の姿があった。

 「……っ!」

 それは未だかつて誰も見たことがない、苦悩と切なさに満ちた横顔だ。

 向かいには誰かがいるかのように、彼はそんな表情を浮かべているのだ。

 しかも相手が胸に飛び込んできたシチュエーションなのであろう。

 腕の中にいる人物を愛しそうに見つめる眼差し。

 一瞬。


 アレハ誰ダ!?


 と、その場にいる誰もが思った。

 そこにいるのは今泰介その人だ、と分かっていながらも。

 まるで別人が立っているかのようであった。

 第一、今泰介という人間は、現実にはあんな顔をしない。

 あそこにいるのはまさに。

「伊東成海だ……」

 思わず小声で呟く洋樹に。

 それまで優しい眼差しで愛しい人を見つめていたその青年は、瞬時にして鋭い眼差しに戻った。

 そう、伊東鳴海から今泰介へ戻った瞬間でもあった。


「出てきやがれ!曲者共!!」


 

「……」

「……」

「……」

 曲者共、と称された洋樹、来嶋、工藤は仁王立ちをする今の前で正座をする羽目に陥った。

(やっぱ、俺一人で帰りゃ良かった……)

 ほんの少し後悔する来嶋。

 だがあくまでほんの少しなのは、やはりそれ以上に伊東成海としての今の演技を、久々に見ること
が出来た喜びの方が大きかった。

「で、お前等は、何でここに戻って来やがった?」

 あの切ない顔は、もはやどこにもない。

 右眉をつり上げて、問いかける鬼監督に対し。

「忘れ物を取りに来ました」

 あくまで淡々とした口調で答える洋樹。

 背筋も伸び、きちんとした正座をするその姿を見ていると、いいトコの坊ちゃんの片鱗が伺える……
正直、あんまり罰になっていないような気がする今なのであった。

「はい!!僕は洗濯物を取りに来ました!!」

 顔を赤くしながら、はきはきっとした口調で答える工藤。

 かなり飲んでいるようでご機嫌な様子だ。コイツも正座なぞ全然堪えていない……というか本人自
身正座をさせられている自覚があるかどうかもアヤシイ。

「んなの、明日に取りに行けばいいだろうが!!てめぇ、んなに飲んでいて、明日は大丈夫なんだろ
うな」

 上履きの先で工藤の腹を突く今。

「は……う……そ、そんなトコ蹴らないでくださいよ。吐きそうになるから」

 慌てて腹を両手でかばう工藤。

「けっ、稽古期間中に、そんなに飲む奴があるか」

「そ、そういう今さんこそ、こんな夜遅くに何しているんですか?」

「あ!?」

 今までになく鋭い目でにらみ返されて、工藤はうっと言葉が詰まる。

 すると来嶋が。

「もしかして舞台の稽古ですか?高城先生の……」

「だったら何だっていうんだ」

「嘘!?今さんが出る舞台って来年でしょ!?今から稽古って早くない?」

「早くねぇよ。かなりのブランクがあるからな。勘を取り戻すまでといったら、結構時間が掛かる。まし
てやお前等の面倒も見なきゃなんねぇんだからな」

 今は前髪を掻きながら、溜息を一つつく。

 三人は顔を見合わせる。

 いまさっきの演技を見た限り、とてもそんなものを感じさせるような演技には見えなかったが。

「今のままじゃアイツには勝てない――――

 今泰介の言葉に、その場にいた全員が目を見開いた。

 アイツというのは、恐らく永原映のことなのであろう。

「俺から見たら、今さんの演技は永原さんに負けてはいないと思うんですけど」

 永原と共演した来嶋が言うのだからまず間違いないし、洋樹自身もそう思う。

 工藤も同じコトを思っているのか、こくこくと何度も頷く。

 すると今泰介は来嶋の胸倉をつかみ。

「当たり前だ!俺だって負けてるたぁ思っちゃいねーよ!!だけどな、俺の中ではあいつに勝たなき
ゃ気が済まないんだ!!」

「か……勝つ、と言われましても具体的に、何をもって勝つといえるんですか?」

 来嶋はまぁまぁと押さえながら、今に問いかける。

「んなの決まっているだろ!?相手を落としたら勝ちだよ」

 堂々と言ってのける今の言葉に。

 全員、一瞬フリーズした。

 今さんが、永原さんを落とす?

 落とすってつまり……


「はぁぁぁぁぁ!?」


 全員目を皿のように丸くして、稽古場に響くほどの声を上げた。

 今自身は全員が一体何に驚いているのか分からず、きょとんとしている。

 来嶋は目を皿にしたままだが声だけはどうにか落ち着いた声で今に問う。

「つまりあれですか。今さん的な勝利というのは、永原さんが自分に惚れたら勝ち、ということですか」

「あたぼーよ」

「今さん、本当は永原さんのことが好きなんですか?」

 やっぱり目を皿にしたまんま問いかける洋樹に、今はきっと睨む。

「んなわけねぇだろ!?あんな奴大嫌いだ!!」

「大嫌いなのに惚れさすのっておかしくないですか?」

 やっぱり目をまん丸くしたまま問いかける工藤に、今はふふんとせせら笑う。

「お前等分かってないな。だから、惚れさすんだ。あの野郎を散々骨抜きにしてやった後に、こっぴど
く振ってやるんだ。くくく……どれほどの屈辱を与えられると思う?」

 不敵な笑みを浮かべ、拳を握り、闘志を燃やす今泰介に。

 三人は呆気にとられるのであった。

「来嶋」

 洋樹は小声で声を掛ける。

「何だ?」

「俺……なんとなくなんだけど……永原さんも今さんと全く同じコトを考えているような気がする」

「ああ、あの人も負けず嫌いだからな」

 来嶋もさもありなんと言わんばかりに頷く。

「なんか面白くなってきたねぇ」

 いつになく弾んだ声がとても楽しそうで、工藤はそんな師匠の様子を微笑ましく思うのであった。

 永原への闘志で勢いづいたのか、今は三人に言った。

「おーし、折角だからお前等の中で誰か俺の相手をしろ」

「え……?」

「何だ、三人とも、さっきから鳩が豆鉄砲を食ったようなツラしやがって。俺の稽古に付き合えってこと
だ」

「…………」

 つまり伊東成海の稽古に付き合う?

 永原と共に伝説となった名優の?

 三人はもう一度顔を見合わせてから。

 数秒後。

 一斉に手を挙げた。

「俺やります」

 手を挙げる洋樹に来嶋が。

「いいや、俺がやります」

 工藤に至っては両手を挙げて。

「ダメダメ!僕がやる!!」

「来嶋は永原さんと同じ舞台踏んでいるんだし、少しは遠慮しろよ。俺なんかあのレベルの役者と絡
めるチャンスが少ないんだから!」

「何言っているんだ。お前だってこの前永原さんの代読したじゃないか」

「永原さんと絡めるチャンスだって実はそんなにないんだよ!」

「ちょっと、ちょっと!僕なんか今さんや永原さんと一回も絡んだことないんだから!

僕優先にしてよ!!」

「大丈夫だ、工藤!お前ならこの先いくらでもチャンスがあるから」

「そんな言葉に騙されるもんか!相模君の方がもっとチャンスがあるじゃないか!!」

 ぎゃーぎゃー言い合う三人に、今は苦笑しながら言った。

「全員相手にしてやるからジャンケンで順番決めろ」←内心ちょっと嬉しい。


 そういうわけでジャンケンをした三人。

 最初に来嶋。

 次に工藤。

 最後に洋樹となった。

「んじゃあ、第二章の中盤、イゾルデ役な」

 今は来嶋に台本を手渡しながら言った。

「もう台本出来ているんですか?」

「ああ。今朝方ジジイから速達で届いた。今度の舞台、多分ずっと前から温めてやがったんだろうよ」

「本当なんですね……高城先生、最後の舞台って」

 残念そうに呟く来嶋に、今は肩をすくめる。

「どーなんだか。あの調子じゃ、何だかんだ言いながら100歳までやりそうだぜ」

「それならいいのになぁ。僕もあのお爺さんの舞台、一度は出たいもの」

 工藤はようやく解放して貰えた正座の足を一度のばしてからあぐらを掻く。

「そうですよね。俺も出たいなぁ。今度の高城先生の舞台」

 洋樹はまだ正座をしながら、ぼうっと天井を見上げながら呟く。

 すると工藤がポンと手を叩き。

「よし!高城先生に直談判だ!脇役でもいいから僕等も出して貰おう」

「ええ!?」

「あのおじいちゃん、結構優しいトコあるからさ。頼み込んだらお願い聞いてくれるかもよ?」

「そうなんですか?なんか、すんごい怖いって有名じゃないですか。あのお爺さん」

「ううん!そんなことないよ。だって、時々KONに来ることあるけどさ。優しく演技指導してくれるし、よく
外国のお土産くれたり、洋服くれたりするんだ」

「え、それって」

 洋樹は顔を引きつらせる。

「でも、なんかねぇ。女物の下着とかもくれたりするんだけどさぁ。あれだけは何とかして欲しいんだよ
ね」

「……………………」

 巨匠と呼ばれし高城幸甚は。

 大の女好きであることでも有名だ。

 工藤はそんじょそこらのアイドルなど裸足で逃げてゆくぐらい、綺麗な顔をしている。

 それこそ女性と見紛うばかりに。

 高城氏が工藤潤を女性として勘違いしていることは、大いにあり得る。

「…………工藤さん。あの、あんまり高城先生にお願いとかしない方がいいような気がするんですけ
ど」

「浅羽の言うとおりだぞ、工藤」

「ええ!?ちょ……二人して何で!?ちょっと、相模君」

「ん?悪いな。今台本に集中していて会話聞いてなかった」

 台本に目を向けたまま、来嶋はそっけなく答える。

「ちょっと、浅羽君。どういうこと??」

 美少女顔負けの顔を近づけて尋ねる工藤に、洋樹はやや顔を赤らめながら答える。

「だってお願いなんかした日には見返りを求めてきそうじゃないですか」

「見返りって……女の子ならそういうこともあり得るけど、僕は男だし」

「ツラが女ってだけで十分だけどな、あのジジイは」

 今の言葉に、工藤はたちまち顔面を蒼白にする。

「嘘!?……じゃあ、やたらに僕の体を触ったり、豊胸手術とか勧めたのって」

 ムンクの叫びのような顔をする工藤に今は大きな溜息をついた。

「……お前気付くの遅すぎ」

 そんな会話をしている間に、来嶋は自分が演じる部分の台詞を覚えたらしい。

 次に演じる工藤に台本を渡し、立ち上がった。

「よろしくお願いします」

「ああ。永原との舞台で、どれだけマシになったか見てやるよ」

 今泰介はにやりと笑って言った。




 

「あなたが花嫁を迎える騎士として船に乗っているのを見た時の私の衝撃がどんなものだったか…
…っ!!」

 互いに惹かれ会うトリスタンとイゾルデ。

 しかしイゾルデはマルケ王への輿入れが決まっていた。

 恩人であるマルケ王に忠義を誓うトリスタンは、イゾルデへの想いを募らせながらも、

花嫁を迎える騎士としてイゾルデが乗る船に同行した。

 来嶋が演じる第二章の中盤は、たまたま王宮の中庭で二人きりになった時、イゾルデは何故自分
を迎えに来たのがあなただったのか!?と、トリスタンを責める部分。

 鋭い眼差しの中に、涙を浮かべ、押さえきれない感情をぶつけてくるイゾルデ。

 その姿、立ち振る舞いは気高い女王のようにも見えるが、儚い少女のようにも見える。

(成る程……あいつと同じ舞台を踏んでるだけのことはあるな)

 だいぶブランクがあるとか言っていたが、永原に相当たたき直されたのであろう。

 演劇を辞める以前よりも、格段と演技力がUPしている。

 一見地味な顔立ちだが、演じることで主役にも成りうる輝きを放つ存在感。

 それでいて主人公を際立たせる術も心得ている。

 こちらも安心して演じることができる相手だ。

 来嶋が演じている間、工藤は台本を。

 洋樹は二人の演技を食い入るように見ていた。

(今さん……凄すぎる)

 さすが永原と実力を競っていただけに、指先にまで神経が行き届いた演技だ。

 僅かな表情の変化。

 息づかい。

 そして立ち振る舞い。

 何をとっても人を惹き付けてやまない。

 永原が水のように浸透し人の心に響かせる演技だとすれば、今は鋭い刃のように人の心に突き立
てる演技。

 そして来嶋も。

 どこから見ても男なのに、演じることで気高く美しい女性に見えてくるのだから不思議だ。細やかな
動きや、言い回しも実に淑やかだ。今とひとつも引けを取っていないのは流石だ。

 いつの間にか台本を読んでいた工藤も、今の演技にぽっかりと口をあけたまま見入っている状態
だ。

 来嶋演じるイゾルデが、今演じるトリスタンの胸に飛び込む。

 背の高い男同士の演技だというのに、来嶋が異国の姫君に見えてしまうのが不思議だ。


「じゃ、次はてめぇだ。工藤」


 抱擁のシーンを終えた後、今はぱっと来嶋を引き離して工藤の方を見る。


「はう!?ま……まだ台詞が……」

「んとにトロいな。てめぇは。あと10秒で覚えろ」

「むむむ、ムリです!」

 あわてて台本にかぶりつく工藤に、今は舌打ちする。

「仕方ねぇな。あと一分待ってやる」

 一方来嶋は洋樹の隣に腰を下ろすものの、心ここにあらずといった様子で、ぼうっとしていた。

「来嶋?」

「……ヤバイ」

 己の手を見つめながら来嶋は呟く。

 その指先はかすかに震えていて……いやよく見たら肩も……全身が小刻みに震えていた。

「おい、どうしたんだよ」

「……ヤバイ。危うくあの人に惚れるとこだった」

「……!」

 洋樹は目を見開いた。

 来嶋の言いたいことは分かる。

 確かにあの今の演技を目の当たりにすると、身も心もゆだねたくなってしまうような、

心が女になりそうになるのだ。

 永原の時にも、同じような現象に陥った時があった。

 ちょっと代読しただけだけども、永原の艶やかな笑みに魅了され、思わず押し倒したくなるような衝
動が沸き上がった。

 来嶋にとっても、永原の舞台はそんな衝動との戦いらしかった。

「ああ。やっぱり半端じゃないな。ちょっとでも神経緩めたら、向こうの勢いに飲まれてしまう」

 来嶋は前髪を掻き上げ苦笑いを浮かべる。

 洋樹はごくりと息を飲む。

 こちらから見たら互角に演じていた様に見えたが、来嶋は来嶋で一杯一杯だったのであろう。よく
見たら額に汗がにじみ出ていた。

 洋樹は向かい合う今と工藤の方を見る。

 先程のシーンの続きになる。

 トリスタンの胸に飛び込んだイゾルデは、拳を握り、その胸を叩く。


「あなたはそれが運命だ言った……それが何なの!?今更!!」

 イゾルデ演じる工藤の目から涙がこぼれる。

 そして射抜くような強い眼差しを、トリスタンに向ける。

 今はその眼光の鋭さに、内心舌を巻く。

(こいつは見かけが女だけに入りやすいけどな……けれど、眼力は半端じゃない。さすがに目の当た
りにすると、相当な迫力だ)

 工藤と共に演じたKONのメンバーの多くは、彼の迫力に気後れしてしまう。

 見かけによらず好戦的なので、演技も実は喧嘩腰な部分がある。

(こいつと相模を共演させたら、おもしれぇ舞台が出来そうだな)

 頭の隅でそんなことを考えている自分自身に、今は自嘲する。

 どうしても演出家としての思考が働いてしまうのが悪い癖だ。

 自分は、いま彼らと同じ役者として立っているのに。

 今はすぐに頭の中を切り替える。

 演出家の思考はではなく、役者として工藤と向かい合う。

「そうだ。運命だ。俺はそれを受け入れるつもりだった……あんたに会うまでは!!」

 今は工藤に向かって手を伸ばし、その顎を持ち上げた。

(うわ……)

 工藤は内心動揺する。

 演技とはいえ、今の顔が間近にあって、しかも自分に触れているのだ。

 なんて熱い指先。

 それでいて、いつもの怒鳴り声とは異なる、身体の中にずんと響く声。

 ああ、これが役者としての今泰介なのだ。

 熱い荒波が押し寄せてくるような感覚を工藤は覚えていた。

(すごい……)

 泣きたくなる思いが、自分のものか、イゾルデのものか分からなかった。

 同時にこみ上げてくるのは、もっとこの人と演じたいと思う欲求だ。

 今泰介……いや、伊東成海と同じ舞台に立ちたい。

 漠然と夢見ていたことだ。

 けれども、いまほんの少しの間演じていて、その漠然とした夢ははっきりした目標に変わっていた。

 自分は必ずこの人と同じ舞台に立ってみせる。

 トリスタンのに首に手を回すイゾルデを演じながら、工藤は密かに心に決めたのであった。

 

「じゃ、最後にてめぇだ。浅羽」


 洋樹は緊張した面持ちで頷き、立ち上がった。

 それと入れ替わるよう、戻ってきた工藤に来嶋は訝しげに眉を潜める。

 なんとも言えない悔しげな友人の顔がそこにはあったからだ。

「……自分の演技に納得できなかったのか」

「ううん。今の僕にはこれが精一杯。もっと努力しなきゃって思ったよ」

 心配そうに見詰める来嶋に、工藤はにこりと笑ってみせる。

 だがその表情は、すぐにまた複雑なものに変わる。

 彼は膝を抱え、その中に顔半分を埋めながら小声で呟く。

「あの人と演じなきゃよかったのかな」

 思いも寄らぬ言葉に、来嶋は己の耳を疑う。

「おい……何を言って……」 

「だって、そうしたら、こんな気持ちにならなかったのかも」

「こんな気持ち?」

「…………羨ましいな。永原さん」

 本当に小さな、小さな声で呟いた言葉。

 来嶋はなるほど、と心の中で呟く。

 もっと、今泰介……いや、伊東鳴海と演じたいのであろう。工藤は。

 この三人の中では、その気持ちが一番貪欲に違いない。

 何しろ今を尊敬し、今とともについてきて、劇団KONを作り上げたのだ。

 実力が違うと分かっていても、同じ舞台に立つ永原に嫉妬せずにはいられないのであろう。

 来嶋は今と洋樹の方を見る。

 少し前までは永原との代読では、一杯一杯の演技をしていたが、やはり今に相当鍛えられているだ
けに、大分余裕がある面持ちで挑んでいる。

(ふん……俺様相手に怯まないトコだけは褒めてもいいな)

 同じ年代の俳優のひよっこであれば、普通なら震え上がっているところであろう。

 役者として第一線を走っていた時も、同期や後輩のの俳優たちの多くは自分を恐れたものだ。

「あなたに出会わなかったら良かった!あなたをあの時助けなかったら……」

 洋樹演じるイゾルデは拳を握りしめ、悲哀に満ちた叫びをぶつける。

「あんたにさえ会わなかったら……だけど俺たちは出会ってしまった!、くっ、この肌も王が触れたの
か!?この唇も」

 優しく指先でイゾルデの唇をなぞるトリスタン。

 本当に目の前にいる俳優が、あの今なのか? 

 切ない眼差し、求めて止まない眼差し、それでいて殺意に近い激情の眼差し。

 目だけで幾つこの人は演じることができるのか。

 トリスタンは目を見開き、食い入るようにイゾルデを見詰める。

 殺意に近い眼差しが、殺意そのものに変わる瞬間を洋樹は見たような気がした。

 殺される!

 自分はこの男に殺されるのだ。

 長い指が首に絡まってくる。

「いっそのこと……この場であんたを殺して、俺も死のうか?」

 甘い、甘い囁き。

 洋樹はつかの間恍惚の表情を浮かべる。

 このままトリスタンの手によって死ねたら。

 イゾルデは目を閉じる。

 身も心も全てこの人に委ねたい。

 ごく自然に洋樹はふっと笑みを浮かべた。

 安らぎと歓びにみちた微笑に、今は瞠目する。

(こ……こいつ)

 一瞬、どきりとした。

 いつの間にそんな演技を?

 いや……それよりもいまの表情は奴を彷彿させる凄みがあった。

 奴の弟子だから?

 だからといってそこまで似ることはないだろう?

 見よう見まねで演じられるものではない。

 というか、この新人を見ているとだんだん、奴と演じているような気分になるのは何故なんだ?

(んっとに、恐ろしいガキだな。コイツは)

 まだまだこの新人は、底が知れない。

 この先経験を積むことで更に演技に深みが増すだろうし、男女問わず、人の心をぐっとつかみ寄せ
る表情を自然と浮かべることができる役者だ。

 もっと浅羽の演技がみてみたい。

 どれほどのものが演じられるのか。どれほどの舞台を彼は築き上げられるのか。

 今は洋樹の首から手を離し、その代わり後頭部に手を回し自分の方に引き寄せた。

「……?」

 台本にはないアドリブに洋樹は戸惑う。

 今が不敵な笑みを浮かべ、耳元で囁く。

 ぞっとするような甘い声だった。

「おい、お前マジで俺のトコに来る気はないのか?」

「え……」

「あいつの弟子じゃなくて、俺の弟子になれよ」

「……っ!」

 いつもの脅迫じみた言葉遣いとは全く違う。

 どこか懇願する響きを交えたその声は、恋人に愛を請うそれに近い。

(そ……そうきたかよ)

 いつもの脅し文句ならさらっと受け流せるのだが、トリスタンモードで囁かれると、こっちもイゾルデモ
ードになってしまう。

 頭では演じているに過ぎないと分かっているのに。

 洋樹は何度か唇を動かし掛けては、声にならない声を出す。

「聞こえねぇよ。馬鹿」

 その言葉遣いも妙に優しい。

 まだ向こうはトリスタンモードなのだ。

 もうこっちはイゾルデモードが洋樹モードか、混沌とした頭の中でようやく言葉を紡ぎ出す。

「俺は……もう今さんの弟子です」

「ああ」

 満足そうな笑みを浮かべるトリスタン。

(ふ……勝ったぜ)

 永原映の顔を思い浮かべながら、今は内心呟く。

 だが。

 つかの間トリスタンの抱擁に身を任せていたイゾルデは、はっと我に返った。

  そしてきっと顔を上げ、トリスタンの目をまっすぐ見る。

 「俺はもう、今さんの弟子ですが……でも永原さんの弟子でもありますから」

 イゾルデから浅羽洋樹に戻った少年はきっぱりと告げる。


 瞬間トリスタンは今泰介に戻った。


「んだよ、そりゃ」

 ちっと舌打ちをし、今は回していた手で洋樹の頭を叩いた。

「そりゃ今さんには沢山のことを教わりましたけど、永原さんにも同じぐらい沢山のことを教わっていま
すからね。俺にとっては両方師匠です。もっと言えば、来嶋さんや工藤さんも俺の師匠ですから」

「ぼ、僕もかい!?て……照れるなぁ。師匠だなんて」

 素直に喜ぶ工藤だが、今は何だかはぐらかされた気分で、面白くなさそうに 口をへの字に曲げる。

 そんな二人の様子に苦笑する来嶋。

 しかし実際、洋樹にとっては今も永原も両方師匠には違いない。

(それに俺だってどれだけあいつにイロイロ教えてやったか……)

 本当なら自分だって師匠と名乗りたいぐらいだ。ま、今達に肩を並べるようで、おこがましいので、そ
んなことは言えたもんじゃないが。

「おーし!!てめぇら、ついでにもうワンシーン練習付き合え」

「え!?ホントに」

真っ先に目を輝かせ、ガッツポーズをする工藤。

「いくらでも付き合いますよ」

 来嶋も快く頷く。

「どんな役でもやります」

 ぐっと拳をにぎり、強い口調で言う洋樹。

 そんな三人の反応に、内心にやけたい思いを巧みに隠しながら今は頷く。

「じゃ、今度は浅羽。てめぇが※メロート役だ」


※マルケ王臣下でトリスタンを陥れる悪役 映画では親友役だった。




 こうして四人によるトリスタンとイゾルデの稽古は、夜明けまで続いた。

 午前九時。

 劇団KONにやってきた礼子は、稽古場に敷かれた6畳の畳の上に小道具の布団を敷いて四人で
雑魚寝をする男達に、呆れた溜息をつくのであった。

「あんた達!なにやってんの!?電気もエアコンも付けっぱなしで」

 落雷のように落ちてきた怒鳴り声に、洋樹、来嶋、工藤は反射的に跳ね起きた。

 今だけは頭を掻きながらマイペースにゆっくりと起きる。

「よぉ、礼子。朝から張り切ってんなぁ」

「何を言っているの!?ちょっと、四人して何をしていたの!?……一人はKONじゃない人もいるし」

「おう、成り行きでな。俺の練習に付き合って貰っていた」

「成り行きって……それに練習って?」

「おっと、十一時からブルーA社のジジイが来るっつってたな。めんどくせぇ」

 ブツブツ言いながら起きあがる今に、礼子は腕を組み溜息混じりに言った。

「一応スポンサーなんだから、そんな呼び方をするのはやめなさい」

「何で俺があのホモジジイに鼻鳴らさなきゃならねぇんだよ」

「仕方ないじゃない。あそこの社長さんにとって、あなたは演劇界のプリンスのイメージがまだ強いん
だから」

「…………」

 礼子さんの言葉に、洋樹と工藤は目を丸くする。

 演劇界のプリンス?

 今が?

「どっから見ても王子と言うよりは王様みたいな……」

 洋樹の言葉に工藤はふるふる首を横に振り。

「王様というよりはドン?演劇界のドンでしょ」

 しかし来嶋は大まじめな顔で。

「本当にそう呼ばれていたんだぞ。一部では。永原さんと一緒に演劇界のプリンスって」

「…………」

 洋樹と工藤は顔を見合わせて、数秒後、頭まで布団をかぶった。


 うくくく……!

 あはははは……!


 布団の中で、二人は腹を抱え笑うのだった。

 そんな彼らをじろっと睨む今。

(午後からの稽古、覚えてやがれ、てめぇら)

 内心呟きながらも、とりあえずは聞かなかった振りをして、礼子と共に稽古場を後にする今。

 彼らが去った後、洋樹と工藤は布団から出て、まだ腹を抱えて笑うのであった。

「いや、お前ら笑っているけど、昔は王子と言われても、そう違和感なかったんだぞ?」

「嘘だー!!王子ってキャラから一番遠いのに。そりゃ永原さんだったらまだ分かるけど、今さんは」

 今泰介の昔を知っている来嶋は、一応フォローは入れておくものの、いかんせん現在の今泰介しか
知らない洋樹と工藤にはおかしいことこの上ないようだった。

 洋樹は仰向けに寝ころんだまま、工藤と同様笑っていたがしばらくして、ふっと満ち足りた笑みをう
かべてぽつりと言った。

「楽しかったなぁ……」

 洋樹の言葉に、来嶋と工藤も同じように笑みを浮かべる。

「うん、楽しかった」

 工藤もまた洋樹と同じように寝っ転がる。

「またやりたいな」

 来嶋も同じように仰向けになって寝た。

 洋樹は天井を見詰めながら、心の声を言葉にする。






「役者って最高」






 稽古場の窓から差し込む温かな日差しに目を細め、洋樹は春がもうそこまで来ているのを感じた。

 初回公演まであと10日をきったある日のことである。

                   

                                 END   

 



 






 



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